ゼファー
負けた、なぁ。
坐臥に横たわった老人が熱病に朦朧となった頭で考えるのは、結局それであった。
ああ、この期に及んで何を俺は。今の俺を見ろ。惨めに老いさらばえて、坐臥にしがみついている、醜いこの俺を。これが敗者の姿でなくてなんだというのだ。
負けた理由だって、とっくにわかっているのだ。ああ、考えるまでもない。どうあったって俺には敗北以外許されていなかったではないか。
熱病のせいか、見上げていた幕舎の天井が、やけに高いように思える。それが次第に高くなっていく錯覚に陥り、老人は思わず目を閉じた。
そうすると今度は、自分の肉体が際限なく坐臥に沈み込んでいく。その脱力感は思いのほか心地良く、老人はまた、今日何度目かもわからぬ深い眠りに落ちてゆく。
負けたのは、ああ他でもない。わかっている。が、そこまで考えられはするものの、さりとて一向に思考のまとまらぬまま、老人の意識は坐臥の奥底に飲み込まれていった。
老人の名は韓遂といった。字は文約。
韓遂は西方からの叛乱者だった。その生涯は、漢朝への造反、まさにそれのみよって彩られている。
韓遂が歴史の表舞台に姿を現すのは、中平元年(184)。黄巾の乱が始まった頃、西方涼州にて叛乱を起した。この頃彼は四十歳くらい。金城郡の名士であった。これより三十年の間、韓遂は叛乱の中心人物として戦塵の中に身を置く。
ただ彼の異質なことには、叛乱を起すにも必ず自分以外のものを大将に担いで、それを裏から動かすという形でもって、叛乱の主導者となる点にある。
最初に叛乱を起したとき、彼は辺章という男と組んだ。組んだというよりは、辺章を大将に担いだのである。叛乱軍は他に羌族の北宮伯玉らと結託し、長安周辺を度々脅かしたが董卓らに敗れる。中平三年(186)頃、韓遂は辺章、北宮伯玉ら、叛乱軍の主領格をことごとく殺した。
その後、今度は王国という、これは人名であるが、男と組んでやはりこれを総大将として担いで涼州で暴れまわり、また長安の辺りに侵入した。このときは陳倉で皇甫嵩に撃退され、王国も中平六年(189)に殺した。
次には馬騰と組んで、今度は二十年近く続いた。しかし馬が合ったかというとそういうことではないらしく、二人はかなり頻繁に相争っている。
興平二年(195)以降、関中が権力の空白地帯になると、韓遂は形の上でだけ漢朝に従属しつつ西方に君臨した。
中原では袁紹とその一族を滅ぼした曹操が荊州征伐にでた建安十三年(208)、韓遂の相棒であり、喧嘩仲間であった馬騰は、また韓遂と折り合いが悪くなったこともあり、曹操の薦めに応じて朝廷の衛尉の役についた。
馬騰の一族は鄴に移り、馬騰の軍は息子の馬超が継いだ。韓遂と馬超の年は三十以上離れていたが、ここでも韓遂は馬超を盟主とする。
建安十六年(211)、曹操は漢中の張魯を征伐すべく出陣した。漢中に侵攻するには関中を通らねばならない。曹操はこの機会に関中諸侯を尽く平らげるつもりであるに違いない。
韓遂は関中諸侯に総動員をかけた。馬超・韓遂を大将に侯選、程銀、楊秋、李堪、張横、梁興、成宜、馬玩らが反曹に立ち上がり、潼関にて自ら出動してきた曹操を迎え撃った。
そして敗れた。
それはもう完膚なきまでに敗れ、乱は年内に平定されてしまった。
曹操をあと一歩まで追い詰めはしたのである。黄河を渡河する直前の曹操とその親衛隊百人余りに馬超が奇襲をかけた。曹操は逃げおおせたが、近従である許褚の奮戦がなければ曹操はこのとき死んでいた。
だがそれでも敗れたのである。
何故、曹操を殺し損ねたのだろう。何故、負けたのだろう。いや、答えはもう出ているのだった。
「なんとなれば、韓遂殿は勝とうとなさっておられぬ」
激した声はまだ若い。馬超だ。
「曹操と内通しているなどと申す気は、さらさら無い。だがあなたは本当に勝つために叛を起しているのか」
そうは思えん、という。
そう思うのも無理は無い。
韓遂は単独で曹操と会談を持っていた。とはいえ馬超もその場にいたが、ここでは韓遂と曹操が騎馬のままで出て行ってサシで会談したのである。韓遂と曹操は古馴染みである。
軍事の話は、しなかった。ただ都にいた頃の昔話をして、手を打って談笑しただけであった。
何故そのような会談になったのかはわからない。ただ、言葉が自然に出てくるまま、曹操とはそうなっただけだろう。
馬上では、人はこの上なく正直になるのだ、と韓遂は思っている。とすれば、あの時俺は戦のことなどどうでもよかったのだ。ああ、すると曹操もそういうことになるじゃないか。やはりあいつは傑物だよな。
だがそういった態度は、やはり馬超には受け容れがたかったのだ。
「結局のところ韓遂殿には戦う気があるのか、ないのか」
馬超の声は叱責に近くなっていた。仕方ない。これも涼州人の気質だからな。血が熱せられると、その熱を放たずにはいられない。なに、俺もそうさ。だからこれまで叛を起し続けてきたのではないか。
「戦う気なら、あるさ」
だが勝つ気となると、お前の言うとおりだな、無い。流石にそこまでは口には出さなかったが、韓遂にはこれでわかってしまった。いや、何故今まで気づかなかったのか。
俺は負けたかったのだ。勝てるのなら、それは叛ではない。勝つつもりなどさらさら無いから、常に誰かを担いで、盟主に立とうとしなかったのではないか。端から負けるつもりだったから、仲間を殺して永らえてきたのではないか。そうしてただただ乱を、繰り返していたかったのだ。
激する馬超が、何やら可愛らしく見えた。ああ、お前の言うとおりだよ。だって、勝ったところでどうするというんだ。でもそれはお前も同じことだ、孟起よ。曹操は逆だ。勝った後のことしか考えていないぞ。だから俺たちはあんなにも語り合えたのだ。
なあ、お前もそうじゃないのか、孟起。勝ち目の無い相手に叛く、それだけで俺たちは生きているんじゃないのか。現に俺たちは、負けるじゃないか。
結局関中軍閥はそれで、呆気なく瓦解した。それでもまだ乱を起すことはできる。涼州に戻れば、羌族などの諸部族によって勢力回復を図って、いくらでも再起することができるのだ。まだ俺は生きられるのだ。
建安十九年(214)、曹操は夏侯淵を涼州に派兵して韓遂を攻めさせた。夏侯淵は韓遂の本隊ではなく、韓遂を支持する羌人諸部族の部落を襲撃し、韓遂をおびきだして、これを破った。
韓遂はまた逃げた。逃げて、逃げながら、もうこれ以上乱を起すのは無理であると悟った。涼州の部族の殆どは、近いうちに曹操に服従するのに違いない。そう悟った瞬間、韓遂が生きるということはできなくなった。老人は生きる気力を失い、病に倒れた。
もうどれくらいまどろんでいたのだろう。夢を見ていた。長い長い人生を、ずっと辿っていたのだ。老人は久しぶりにはっきりした意識の中で目覚めた。
幕舎の天井が目の前に見える。体を覆っていた倦怠感は失せ、上体を起しても何らの違和も覚えない。それどころかここ数年でも稀なほど清々しい。
「今日は、お加減がよろしいようですね」
近従の成公英が傍らにいた。まだ若いが老人はことのほか気に入っている。快活な若者で頭もいい。だがその声はどこか湿っていた。
「また、離反があったな」
「は」
当然の成り行きだと老人は思う。曹操はまるで格が違う。漢朝には叛けても、曹操には叛けない。圧倒的な敗北感。悔しさすら覚えぬほどの。
「蜀へでもいくほかないかなぁ、どう思う成公英」
そういえば、劉備という男は、あれは曹操に抗うことが生きるということになっているのではないか。そう思うとあの男もたいしたものじゃないか。
「もってのほかですよ。軍を起して数十年、いまさら負けたからといって、他人にすがろうとするなどとは何事ですか」
責めるような口調ではなかった。悔しいのか、あるいは拗ねているようにも聞こえる。
いやいや冗談だよ、本気にしたのかい、坊や。成公英ほどのものなら、俺のことなんてとうにお見通しかと思っていたけどね。
「ええ、ええそうでしょう。まだ諦めるのは早いですよ。殿の昔の仲間を集めて、羌胡を慰撫して兵を集めればまだまだやれますよ」
そうですよ、だいたいまだ数千近い民を抱えておるのです。諦めるなど、彼らへの裏切りではないですか。
そのとおりだ。うん、お前は正しい、だが俺はもう死ぬな。なに、七十も生きてきたのだ。戦い、叛いて十二分に生きたんだよ。もういいのさ、俺は。
「俺は風であればよかった」
「風、ですか」
「そして風であった、それでいい」
風は、ただ吹き抜ければいい。吹き抜けて、そこに何も残さなくとも、風が風でなくなることはない。俺が生きたってことはそういうことじゃないか。
「また、眠るぞ。今度は、長くなるだろうな」
「そうですか、しかし余り皆を待たせるようでは困りますよ。私も愛想をつかして、曹操の下に走るかもしれませんからね」
ああ、そうだな、お前はそうするのがいい。もう、老人には何も心配することはなかった。穏やかに目を瞑ると、体の重さはもう感じない。
耳元で鼻を啜るような音を心地よく聞きながら、老人の意識は、ふ、と途切れた。