砂と雲

               

 

 原野に砂煙が幾柱も上がった。

砂塵は風に乗って流れる。その流れと共に大地は鳴動し、鬨の声が原野に広がる。

雲霞の如き騎馬兵の群れが、歩兵の陣列に向かい突撃を開始した。突っ込むや否や、その圧倒的な勢いで敵の陣列を駆逐していく。

衛青は、衝突のあった地点から少し離れた小高い丘の上で、わずかな供周りの兵のみを連れ、戦の成り行きを見ていた。

脆い。

 堅陣を敷いているにも関わらず、歩兵の陣列はあまりにも簡単に騎兵に蹴散らかされていく。

 騎兵の圧力もあるが、何より歩兵が及び腰なのが気になる。

「やはり、まだ時期尚早だったのではありませんか」

 衛青の傍らにいた武将が、苛立たしげに言った。語気には衛青に対する不満も見て取れる。

「たかだか一度功を上げたくらいで、あのような若輩に一軍をお任せになるなど…」

「よく見るのだ李広殿、確かに押されてはいるが、兵たちが乱れているわけではない。あ奴に何か策があると見た」

 穏やかな口調でなだめる。いつからこの男はプライドばかり高い俗将に成り下がったのか。

 李広は歴戦の勇将であるが、それだけに戦に対する考え方が古い。衛青は少なくともそう評価している。

「心配せずとも、兵力は勝っている。いざとなれば待機している公孫賀の部隊も動かせる。何より…」

 何より、今指揮を執っているあの男が敗れるなどということが、衛青には到底考えられなかった。

 そろそろ仕掛けるはずだ。そう衛青が思った丁度そのとき、銅鑼の音が本陣から響いた。高く三度、低く一度。

追い風を受け、騎兵の先頭が歩兵の第四陣を突破した。余勢を駆って五段目にかかる。

だが、騎兵の勢いはそこで突然鈍った。

馬防柵が建てられたのだ。あらかじめ組み立てておいた柵を寝かせておいて、敵の勢いに合わせて引き立てる。勢いのつきすぎた馬は不意の障害物の出現に棹立ちになる。そこを柵の内側から弩兵が狙い撃った。

気がつけば騎馬隊に分断されていた部隊は各々隊伍を組みなおし、両翼に配置されていた遊撃部隊が背後に回りこんでいる。どうやら本格的に包囲にかかったようだ。

疾駆していれば、圧倒的な機動力に物を言わせることができる騎馬兵だが、足さえ止めてしまえばその大きな図体は弩兵の格好の的であった。逃げようにも、勢いのつきすぎた後続が続々と押し寄せるので、後退もままならない。

 一瞬で状況がひっくり返った。騎馬兵の群れは混乱と恐慌の中、次々と討ち取られる。勝敗は、これで完全に決した。

 衛青の周りの諸将が感嘆の声を上げた。表面上喜んではいるが、皆一様に複雑な思いをしているのが衛青には容易に見て取れる。

 それはそうだろう。こうまで鮮やかな手際で敵軍を駆逐している指揮官は、まだ十八歳の若さである。

 騎馬兵を一掃してすっかり静かになった原野に、『霍』と鮮やかに縫いこまれた軍旗を担いだ騎馬武者が躍り出た。

 騎馬武者は丘の上の衛青たちに見せびらかすように、軍旗を振り回している。勝者である。露骨に誇示していたいのだ。この騎馬武者が先の戦闘の指揮官であり、衛青の甥である。

 まるで餓鬼ではないか。まだ仕事は残っているだろうに。

 李広はまだぼやいているが、衛青は無視することにした。今はかの若武者をいい気分にさせておけばよい。

 若武者の名は霍去病という。これが人生二度目の戦であった。

 諸将はそろって霍去病の戦振りを賞賛し始める。だが内心はこの勝利を苦々しく思っているはずだ。

この天才はすぐに軍の中枢に食い込んでくるのに違いない。そうなれば自分の地位を守るために、あの糞生意気な若造にへりくだらなければならない。

否。そんなことは彼が生まれたときからわかっていた。だがみな心のどこかで期待していたのだ。あの若造が家名だけの凡人であってほしいと。

衛青にはそういった諸将の焦りが手に取るようにわかる。何故なら、この場にいる将のなかで霍去病の活躍を最もこころよく思っていないのは、他ならぬ衛青自身だったからだ。

空を見上げれば、鱗雲が強風に吹かれ散り散りになって飛んでいく。風は砂を巻き上げ、派手な軍旗と若武者の姿を寸時、隠した。

 

  *         *         *

 

 対匈奴戦は漢王朝の宿命であった。

 高祖・劉邦が白登山の戦で惨敗を喫して以来の宿願である。

 匈奴は中国北方の遊牧騎馬民族である。家畜を飼い、水と飼料を求め移動する彼らは、それ故に経済生活が不安定であった。生き抜くためには農耕民族との交易か、もしくは略奪が必要である。

 そのため彼らは度々中華の統一王朝と対立した。特に秦漢時代には有力な二四の部族長を束ねる単于と呼ばれる指導者の下徐々に強大化していったものである。

 匈奴の主力は言うまでもなく騎馬兵である。軽装に合成弓を身に付け、圧倒的な機動力によって、優勢な敵は避け、劣勢の敵には戦力を集中させ矢を浴びせる。

 漢軍にも騎兵や戦車はあったが、匈奴のそれと較べてやはり見劣りした。主力は歩兵である。

漢の軽装歩兵は射程と貫通力に優れる弩を装備していた。だが発射速度や軽さなど、取り回しやすさでは匈奴の合成弓に劣る。攻囲戦や歩兵戦では有利であるが、遭遇戦や運動戦では不利である。

漢の領土内ならば匈奴に負けることはないが、長城を越えるとまったく歯が立たない。したがって小競り合いこそあるものの、劉邦以来漢と匈奴に大規模な衝突はなかった。

だが、七代皇帝の武帝が即位するとその関係は一変する。武帝による大幅な財政改革と中央集権制の確立により、長城の外に目を向ける余裕が生まれたのである。

衛青や霍去病が活躍するのはそんな時代のことだ。

 

  *       *         *

 

憎しや、霍去病。

衛青のその思いは日に日に強くなっていった。

華々しい戦果を挙げ続ける霍去病。浅薄で傲慢なあの男に、声望が集中していく。

 対して衛青への評価は明らかに下がった。衛青の戦果が減じたわけではない。霍去病が目立ちすぎたのである。かの男は掛け値なしに天才であった。

 戦のためだけに生まれてきた男。その故に戦以外の何者にもしばられず、傲岸に我を通す男。

 憎し。

 衛青はしかし、それでも人前では、霍去病の良き叔父御を演じ続けた。

 

 衛青はかつて奴隷であった。

 とある下級役人と、武帝の姉である平陽公主の女奴隷との間に生まれた隠し子である。

 そのため不遇な少年時代であった。衛青が隠し子であることはすぐに本妻に知れる。待っていたのは本妻と、その子供たちによる虐待である。

 過酷な奴隷生活を救ったのは、衛青と父母を同じくする姉だった。衛子夫という。

 衛子夫も彼女の母親と同様、平陽公主のもとで奉公していたが、宮廷内での勢力拡大を目指す平陽公主は、衛子夫が武帝の目に止まるよう図った。

 衛子夫は別段美女というわけではなかった。しかし生来優しい女性であったし、武帝のほうは即位するため結婚した陳皇后と仲が悪かった。

 そんな訳で、後宮に入った衛子夫は次第に武帝からの寵愛を受けるようになる。衛青はその力によって奴隷生活を逃れ、長安で宮仕えをするようになった。

 やがて陳皇后が排斥され、衛子夫が夫人に立てられると、衛青も太中大夫に任じられた。

 と、このように書くと彼が実に都合よくとんとん拍子で出世街道を歩んだように思えるが、その道は決して平坦ではなかった。

 衛子夫が武帝の寵愛を受けるに従って、周囲から沸き起こる嫉妬。衛青は讒言と中傷を浴び続けながら生きた。蔑まれ、疎まれ、命を狙われたこともある。

 衛青は、謙虚で誰にでも思いやり深い人物として知られた。だがそれは、自分を相手以上に見せようとせず、誰にでも媚を売る人物の裏返しでもある。奴隷時代から培った、彼の処世術であった。

 しかし宮廷で生き残っていくには、それだけでは駄目だ。唯一の頼みである武帝の衛子夫への寵愛もいつまで続くかわからない。

 武帝が匈奴に対して大規模な遠征軍を組織したのはそんな折である。

 元光七年(前一二九年)、衛青は一万の軍を預けられ長城を越えた。そして漢の建国以来はじめて、匈奴の軍に損害を与えることに成功したのだ。参戦した諸侯のほとんどが敗走している中で、である。

 衛青の用兵は従来の兵法とは一線を画していた。柔軟な発想と匈奴に関する知識。衛青は匈奴の得意とした砂漠戦にすぐさま対応し勝利を続ける。

 その活躍もあって衛子夫は正式に武帝の皇后になった。衛青も平陽公主と結婚し、武帝の義兄となる。さらに戦勝を続けた衛青は、元朔五年(前一二四年)にはついに大将軍の座に就いた。

 しかし衛青がそれで権勢を誇ることはなかった。もちろん彼に対する反感を抑えるためである。

波乱万丈の人生の末、衛青は漢軍の最高司令官の地位と、その人柄から絶大な人望を得た。

だが、その地位を早くも脅かす人物が現れる。誰あろう、彼の甥である霍去病であった。

 

 霍去病は衛子夫の姉、衛小児の子である。物心つくころにはすでに皇帝の外戚であった。少年の頃より宮中に出仕し、君愛を受けている。

 それゆえか、傲慢で思いやりに欠ける男であった。

 強行軍で疲弊しきった兵たちに蹴鞠場を作らせ、興じた。兵糧が不足していたときでも、自分だけは皇帝から賜った珍味を平らげ、余ったものは分配せず捨てた。

 しかし強い。恐ろしく強い。

 霍去病の初陣は一八歳のとき。この戦役で早くも冠軍(戦功第一)となる。

 衛青以上の戦の才。生まれた時より約束された、陪臣共に煩わされることのない地位。その傲岸な態度……。

 憎し。衛青には彼のすべてが癇に触った。自分が躓いたあらゆるものを、霍去病は最初から飛び越えてしまっているのだ。いや、飛び越える必要すらない。雲のように、遥かな高みから見下ろしているだけだ。

 実力は誰より認めている。しかしだからこそまた、誰よりも霍去病が妬ましかった。

 

 元狩二年(前一二一年)の夏、霍去病は驃騎将軍に任ぜられ、河西方面に出陣した。

 河西回廊を制圧し、シルクロード交易の利を匈奴から奪還するためである。

 当初の予定では、衛青旗下の公孫敖が正面から河西回廊を突き、霍去病は武威、居延を経て河西回廊を裏口から挟撃するはずであった。

 しかし、公孫敖が道に迷ってしまったためにこの作戦は破綻する。

 にもかかわらず、霍去病は単独での攻撃を決行した。

 匈奴軍は酒泉より四十里(約十六キロ)の地点に集結していた。漢軍の襲撃に備え東側の防備は強化していたが、西側は無防備であった。そこを突く。

 無論本来なら無理だ。霍去病が率いていた兵は一万に過ぎなかったし、通常の漢軍の行軍速度では、攻撃を仕掛ける前に気づかれる。

 しかし霍去病は兵の装備を最小限に軽量化し、輜重を捨て去って、食料は道々で略奪し強行軍を続けて奇襲を成功させた。

これによって霍去病の声望は衛青を遥かに凌ぐようにった。人心も衛青から霍去病に移っていく。

 

  *        *         *

 

霍去病が遠征から帰還した。河西を奪取しての凱旋である。

嬉々として武帝に戦果を報告している霍去病が、衛青にはただただ妬ましかった。だが決して表情には出さない。今霍去病に敵対するわけにはいかないのだ。

 

「お聞きになりましたか、私の戦振りを。叔父上」

宮中の廊下で、霍去病に話しかけられた。正直顔も見たくはなかったが、衛青は霍去病の叔父である。

「もう何度も聞いたさ。耳にたこができるほどにな。だが何度聞いても胸がすくの。お主の戦は」

 そうでしょうとも。霍去病は自慢げに顔を綻ばせる。女のように白い肌がほんのり紅潮している。本当に嬉しいのだ。戦勝の報告を叔父にできるのが。

 まったく嫌がらせではないか。こちらは世辞を言うのにもはらわたを煮え繰り返しているというのに。

 衛青は、軍人として霍去病が尊敬している唯一の人物である。霍去病は掛け値なしに叔父を慕っているが、衛青にははっきりいって疎ましいだけだった。

「いやまったく、こう言ってはなんですが、今回の戦は公孫敖殿が道に迷ってくれたおかげで勝てたようなものです」

 聞いてもいないのに戦の仔細を語り始める。霍去病には他人を慮る感受性が完全に欠けていた。

 今度の失敗の責任者である公孫敖は、衛青の部下である。かつてまだ宮仕えをしていた時分には命を救われてもいた。そんなことは霍去病だって知らないはずはないが、霍去病は徹底的に気を遣うことができない。自分の話したいことしか、話せないのだ。

「しかし去病よ、一部ではお主の戦を非難するものもおる。あまり悪目立ちしすぎると余計な敵を作るぞ」

 霍去病の戦は非道だ。衛青はそう思う。

 今度の戦でも、降伏しようとした匈奴兵八千に攻撃をかけ虐殺している。自戒せよ。暗にそう言ったのだが、霍去病は意にもかけない。

 もしや、という確信めいた考えが衛青にはあった。

 匈奴が東側ばかり警戒していたのは何故か。無論道に迷った公孫敖の軍がうろうろしていたからだ。

 公孫敖が道に迷ったのは何故か。公孫敖は河西方面に何度か出陣している。特に酒泉は、同年の春にも入った土地である。いかに迷いやすい砂漠とはいえ、公孫敖も万端準備を整えていたはずである。

 もしやこの男、公孫敖を捨石にしたのか。

 公孫敖を道に迷わせしめたのは、霍去病ではないのか。自分の奇襲に都合の良いように匈奴軍の東側に誘導したのではないか。

 普通なら有り得ない話だ。しかし霍去病ならやりかねない。この男はなにせ類まれな自己顕示欲と、驚異的な実行力を併せ持つ。

 あまりにも劇的な勝利。もしそれが無茶な路線変更よって霍去病が演出したものだとしたら。

 背筋に震えが走った。霍去病はもはや衛青の理解の範疇を圧倒的に越えている。

 その日霍去病とは無難に別れた。霍去病は概ね機嫌がよく、もちろん衛青は首をもたげた疑惑のことなどおくびにも出さなかった。

 あの震えは、畏怖か。

 負けを認めたということか。あの男に。

 ということは、まだ負けていないつもりだったのか。俺は。

 何か、熱いものが原の底から込み上げてくる。そんな感覚を、衛青は酷く久方ぶりに憶えた。

 越えたい。あの男を越えたい。

妄執に似たその思いは、いつしか衛青を動かす全てとなった。

 

    *       *       *

 

 眼前の砂嵐は、僥倖である。

 視界が効かず、馬も動かせない今のうちに、予備の兵に陣を組ませ、両翼を広げていく。砂塵が収まったら、じりじりと包囲を狭めていけばよかった。

 勝てる。

 匈奴にではない。霍去病にである。

 砂塵の向こうに衛青が相対していたのは、匈奴の兵馬ではなく霍去病に他ならなかった。

 砂嵐が弱まり始めた。衛青は銅鑼を鳴らさせる。

突撃。馬腹を蹴る。剣を振り上げ、何事か叫びながら、衛青は情動のまま飛び出していた。

 

 元狩四年(前一一九年)、匈奴との最後の戦である。

 武帝は合計二十万もの大軍を動員して、決戦に挑んだ。衛青と霍去病は共に大司馬に任命されて、各々一軍を担う。

 当初、単于の指揮する匈奴本隊には霍去病が当たり、衛青は左賢王の軍と戦うはずだった。

 だが直前に単于が東に移動したのを受け、急遽作戦は変更された。単于には衛青が、左賢王には霍去病が当たる。

 その情報を得たとき、霍去病はあからさまに狼狽したという。周りの将校に散々喚き散らした末、幕舎の中で嘔吐したと、衛青は伝令から聞いた。

 

 砂漠に日が完全に沈む頃、戦は終わった。漢軍の勝利である。両軍合わせて一万以上の戦死者が出る激戦であった。衛青自ら先陣に立ち、幾つも小さい傷を受けている。

単于を捕り逃したという報告を受けたが、衛青は聞き流した。

 霍去病は。そればかりが気になる。

 砂漠の夜は冷える。傷口に寒さが染みるが、衛青には格段の感慨ももはや無かった。

 

     *       *       *

 

 翌年、衛青は霍去病の屋敷を訪なった。霍去病が病に伏せるようになってだいぶ経つが、衛青が見舞いに行くのは初めてである。

 最後の戦。霍去病は左賢王の軍を猛烈に打ち倒し追撃を続け、最終的には現在のロシア近くまで至った。戦死、捕虜合わせ七万を数える大戦果である。霍去病の配下の将に聞けば、どこかなりふり構わぬ、鬼気迫った戦であったという。

 そんな霍去病はしかし、凱旋するなり病に倒れた。血も吐いたという話だ。

「見舞いが遅くなって済まない。匈奴討伐がひと段落ついても、今度は国内の政で手一杯だったのでな」

 衛青は笑みを絶やさず、最近の宮廷での出来事を話し続けた。布団の中の霍去病は、静かに逐一頷きながら聞いている。

 それにしても霍去病のやつれかたは尋常ではなかった。顔色は白を通り越して死人のように青ざめ、落ち窪んだ眼孔の奥にうっすらと光が見える。

「ところで、医者の姿が見えぬが、しっかり診てもらっているのだろうな」

「その医師ならば」

 声に言い知れない凄みがあって、衛青はぞくりとした。弱々しい、しかし何もかも透徹したような、冷たい声だった。

「斬りました。腹を割かなければ、治せないと言われたので」

 言い終わると、霍去病は苦しそうに呻き、布団の上に吐いていた。侍女が飛んできて始末する。

「医者がいなければ、治せるものも治せないではないか。お前はまだまだ若いというのに」

「よいのです。叔父上。私はじき死にます。それでよいと、思うようになりました」

「馬鹿な。お前はまだこの国に必要な人間だ。これからもっと働いてもらわねば、俺が困るのだぞ」

 嘘だった。霍去病が死んで、最も喜ばしいのは衛青である。それに対匈奴戦がひと段落した今、戦しか能のない霍去病の居場所はすでに無かった。

「最後の戦の折、天命、というのでしょうか、見えたような気がするのです」

 侍女に背中をさすられながら、霍去病はぽつぽつ語り始めた。

「もう、匈奴はこちらに攻めて来られないでしょう。聞けば内紛も始まったというではありませんか」

「それでなぜ、お前が死ななければならない?」

「やくわりが終わった、ということですよ。何もすべきことがないのに生きているのは、おかしいでしょう?」

 衛青は絶句した。そして瞬間、理解した。この戦神の戦神たる所以を。衛青が憎み続けたものの正体を。

 知らず、落涙していた。ああそうだろう、そうだろうとも。ならば俺など決して敵うまい。この男はそういう人種なのだ。

「……叔父上には、謝らなければならぬことが」

 衛青の涙を横目に見て、実にすまなそうに霍去病は言った。

「叔父上にはずっと、嫌われていると思っていたものですから」

「……………そうか」

 嫌いだとも。引き摺り下ろして足蹴にしてやろうと、幾度思ったか知れない。今だってそうだ。どうしてお前には、そんなことがわからないのだ。

 衛青にはこの男が、心底憎らしかった。越えたい越えたいと渇望してやまなかった存在。しかし霍去病は、衛青がどう足掻いても越えようのないまま、消えてゆく。

「お前は、雲のような男だ、去病。誰もお前のいる高みには届かない。俺はせいぜいが砂煙よ。風が吹けば、雲のように飛べはするが、止めばそれまでだ」

「でも、雲は風が吹けば、散り散りになって消えてしまいますよ。砂は、いつまでも変わらずあり続けられます」

 そしてそれは、いつしか地に埋もれて、何人にも省みられることはないのだ。

 衛青が噛み殺したその言葉は、彼が涙を拭わない理由にはおそらく十分すぎるものだった。

 

 元狩六年(前一一七年)、霍去病は死んだ。二十四歳。武帝は彼の死を嘆き、辺境に住む匈奴人に黒鎧を着せて、霍去病の棺を長安から墓まで護送させたという。

 武帝の陵墓である茂陵から東に約一キロ、小高い丘のような陵墓が二つ並んでいる。霍去病と衛青の眠る地である。


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