夢を見る人

 

 慶長五年。日本人ならば歴史が好きであろうがなかろうが、ともかく憶えずにはいられないであろう一六〇〇年の九月十五日、夕刻。美濃関が原の地にて、一つの大きな戦が終わった。

 そしてその瞬間、遠く九州の地において、一人の男の夢もまた、人知れず終わった。もっと言えば、当時の情報伝達速度からして、本人にも与り知らぬうちに、彼の夢は潰えた。

 彼はこの時代最後の夢追い人であり、それでいてこの時代最高に現実的な男でもあった。

 そんな彼の生涯最大最後の賭けはしかし、時代という荒波の前に脆くも崩れ去った。

 時代の前に?

いやいや、彼の野望を砕いたのは結局のところ、他ならぬ彼の息子だったのである。

 

 黒田官兵衛。

もっともこの時代の人間の常として、呼称はいろいろある。

官兵衛は通称で、名は孝高という。壮年期に入ってからは入道して「如水」と号した。キリスト教にも受洗しており、洗礼名はシメオン。

最も通りがいいのは如水だろうか。

「水の如く」彼はこの名前をよほど気に入ったのであろう。後世も如水という名のほうが知られている。

が、ここでは官兵衛で通す。

 

黒田官兵衛。司馬遼太郎で育った筆者には、やはりこちらのほうがしっくりくる。

彼の出自や生涯については、その司馬遼太郎の『播磨灘物語』に詳しいのでそちらを参照してもらうとして、ここでは彼の人となりについて少しだけ見ていくことにする。

奇妙な男である。

彼のなにより奇妙なことは、領土的野心が極端に少なかったというところだろう。しかも若い時分のほうが圧倒的に無欲である。名声欲も無ければ、出世欲も無い。戦国に生きる男としては、情けないくらいに無かった。

それに血を見るのを嫌った。これは生涯、嫌っていた。だから槍働きより、調略を好む。当時は戦の前に敵方の武将に話をつけて、寝返らせたり、寝返らないまでも戦闘に参加させなかったりさせる調略は、戦場での槍働き以上に評価された。前線に立たなかったということは無いだろうが、官兵衛が参謀という立場で働いていたのには、そういう事情もあった。

 

官兵衛は秀吉に仕える以前は、直属の主家である小寺家の姓をもらって、小寺官兵衛と名乗っていた。要するにそれだけ買われていたのだが、秀吉が播磨地方の制圧に乗り出すと、当時彼の居城であった姫路城を、拠点として秀吉に明け渡してしまった。

これが結局小寺家と官兵衛の溝となる。「官兵衛は主家を乗り換えたのだ」と言われた。だがまあ、二人の主人を持つのは「兼帯」といい、当時としては珍しくない。

官兵衛としては、小寺家の存続と織田家の天下統一を同じものとして見ていたのであろう。

自分は天下取りのための歯車のひとつでよい。これがこの頃の官兵衛の態度であった。

しかし結局官兵衛の目論見は大きく外れてしまった。小寺家は毛利を後ろ盾にして、別所長治らとともに織田家に造反する。

策謀家として高名な官兵衛ではあるが、この頃の彼はちょくちょく読み違える。

彼は自身が『理』に因って生きる人間だっただけに、そうではない人間の心理が理解できずに反発を招いたのであろう。

天下随一の知略を持ちながら欲をかかず、若い時分から老成しているようでもある。その才能に見合うように態度も大きい。彼よりも年長であったり、身分の高いものは、官兵衛と相対したとき、彼にその気が無かったにせよ、どこか劣等感、というか馬鹿にされているような感覚を覚えたのではないか。

要するに官兵衛は当時、「お高くとまった嫌な奴」だった。

 

そんな彼だが、あるときを契機に決定的に変わる。

摂津伊丹の荒木村重が、信長に謀反を起こしたときのことである。

官兵衛はその村重の説得に有岡城を訪れた。無論、官兵衛はこの仕事に自信を持っていた。というより、高をくくっていた。

村重が今信長に叛く利はない。村重の造反は明らかに毛利の援護を期待していたが、当時の毛利の状況は村重の期待よりも切迫している。兵糧や物資などは海路で送られてくるだろうが、援兵は来ない。一年くらいは籠城もできるかもしれない。だがそれだけだ。敗れれば信長は一族郎党誰も生かしはしないだろう。

 官兵衛はこれで説得するつもりだったが、村重は彼が有岡城に入った途端これを捕らえ、話も聞かずに地下牢に幽閉した。

そのまま一年、官兵衛は獄に繋がれ続けた。伊丹城が落城し救出されたとき、彼の足はすっかり萎えて、満足に動かなくなっていた。

 

その後、官兵衛は秀吉に仕えて中国の毛利攻め、本能寺で信長が横死した後の跡目争い、四国、九州攻めで活躍を見せたが、やはり以前の官兵衛とは違うように見える。

世を拗ねるようになった。或いは彼の皮肉屋気質が表面化したのか。理に因って動きながらも、最終的にはそれを信頼しない。不合理の中にいることをより愛するようになる。

 

九州の役が終わると、官兵衛は豊前の大名になった。十二万二千石。ただ自領の鎮撫には時間がかかった。自領といっても中央から転がり込んだ形であるから、土豪たちは納得しない。

半年掛けて鎮撫したが、官兵衛にしては無理をした。当時最大の土豪だった宇都宮鎮房を謀殺している。

そういったことも一因であったのか、彼は新領主になって半年で、家督を息子の長政に譲ってしまった。若干四十三歳。

本当は隠居もしてしまいたかったのだが、それは秀吉が許さなかった。

とはいえ秀吉は、この頃になると官兵衛を疎んじ始めていた。危険だ、というのではない。不気味なのだ。

秀吉は官兵衛とは長い付き合いだから、官兵衛に自分を倒して天下を取ろうという気がないのはわかる。だが伊丹城の獄から出てきた官兵衛は、どこか天下からはみ出して、退屈そうに飄々と生きるようになっていった。

秀吉には理解ができない。自分をはるかに凌いだ才能を持っていながら少禄で満足して、天下取りにあくせくしている秀吉の傍らでいつもにやにやしている。気味が悪い。そういうことではないかと思う。

 

 名前が出てきたので、少し官兵衛の嫡子にも目を向けてみよう。

黒田吉兵衛長政という。

官兵衛が荒木村重に幽閉されていたとき、織田信長は官兵衛が裏切ったと思い、まだ幼児だった長政を秀吉に殺させようとした。しかし当時秀吉の軍師をしていた竹中半兵衛に匿われ、命を拾ったという。

父から家督を譲られたのは二十二歳のとき。

父の才能は、あまり受け継がれなかったらしい。凡才だ、と官兵衛は思っていたし、長政も長政で、偉大な父を見て育ったからであろう、とっとと自分の才能に見切りをつけていた節がある。

だがこの男は、いや、だからこそこの男は、後に徳川政権樹立の最大功労者の一人となり、父の一世一代の大勝負を反故にするだけのことをやってのけるのだが、その話は後で述べる。

 

官兵衛の話に戻る。

秀吉が死んで以降、関が原の戦いに至るまでの細かい経緯は説明していると長くなるので省くが、官兵衛の人生にとってはこの時が最も生き生きと輝いて見える。

これまでの冷淡な知恵者が、狡猾で大胆な策士へと変貌していく。

 天下を取る。

官兵衛がこの夢を持つようになったのはいつからだろう。少なくとも秀吉に隠居を願い出た官兵衛にはそれは見えない。天下を取った秀吉をひどくつまらないもののように見ていた。そしてできればそれから遠ざかっていようと勤めてさえいる。

だがこう考えることもできる。

天下取りの夢を、官兵衛は生涯捨てていなかった。しかし彼が欲したのは王になるということではなく、天下を自分の手で転がしてみたいという愉楽であった。だから結果的に天下を牛耳るのは誰でもよく、その過程において自らが力を振るえればそれで満足だったのである。

天下の趨勢が決まる関が原の戦いにおいて、官兵衛は蚊帳の外にいた。一応息子の長政が徳川方に参加してはいたが、官兵衛自身が動かせる兵はたかだか五百程度であろう。

ここから天下を狙ってみるのは、たいそう面白そうな遊びではないか。

官兵衛は歳を経るごとに子供になっていく男だったのである。

 

慶長五年。徳川家康が上杉景勝の征討の軍を挙げるや、石田三成も反徳川のため大谷吉継らとともに挙兵する。これがだいたい関が原の二ヶ月ほど前の七月。

この頃はどう見ても両者の対立は一年以上は続くだろうと予想されていたし、官兵衛もそのように考えていた。

官兵衛の目論見としては、中央で家康と三成が戦っている隙に九州を併呑して、第三勢力を造り、その兵でもって京まで攻め上るところまで考えていた。その際障害となる毛利は、家康にも三成にも加担したくはない状況だったから、条件次第では官兵衛につく。

毛利領を通り抜ければ、官兵衛の地元の播州である。そこで地を固め、京を押さえれば、美濃のあたりで消耗戦を繰り返しているであろう他勢力も十分に潰してしまえる。

だがどうやって?

 

 官兵衛は表向きは家康に味方して、石田方についた九州の大名たちと戦う旨を伝えていた。

 だが今の官兵衛の状態ではそれすら危うい。

 まずもって九州は石田方の大名だらけである。徳川についたのは加藤清正くらいのもので、島津も立花も竜造寺も小西も相良も秋月も、有力なものはみんな敵である。

 さらに黒田家の兵は、長政に従ってほとんど中央に出張っている。官兵衛の動かせる兵は実質二、三百程度であったろう。

 官兵衛はしかし、九州全土に向けて兵を募集した。十二万二千石の黒田家に召抱える余裕などはないと思われたが、禄は米穀ではなく、銭だった。

 日ごろ倹約家として知られた官兵衛は、ここぞとばかりに貯めこんだ銭をばら撒いた。

 

 官兵衛がまず戦ったのは大友宗麟の子、義統である。義統は秀吉に所領を没収されていたが、三成に兵を与えられ九州で勢力を伸ばしていた。

 はじめ官兵衛は説得して味方に引き入れようとしたが義統は聞かず、戦となった。

 官兵衛は新徴募の兵約九千を率いていともたやすくこれを破る。

 この戦勝以降、官兵衛の兵は加速度的に増え始め、軍を発してわずか十日で一万三千という九州最大勢力にまで膨れ上がった。

 もはや九州に敵はなく、残る島津や立花を切り従えるのも時間の問題に思えた。

 が、周知の通り関が原における決戦はわずか一日で決着がついてしまった。

 天下は家康の手に呆気なく転がり落ちた。

 官兵衛の夢は終わった。

 

 官兵衛はその後たいして落胆した様子も見せず、すべては家康の天下取りのためであったかのように取り繕うと、以前のような隠居生活に戻っていった。もとよりそうなる可能性のほうが大きかったのである。

まあこんなものだろう。官兵衛は鮮やかなまでにあっさりと運命を受け入れた。

 そんな官兵衛が驚いたのは、関が原の合戦前後における長政の立ち回りであった。

 関が原での家康の勝利を決定付けたのは、何といっても小早川秀秋の寝返りであろう。小早川が寝返るまでは、確かに三成に勝機があったのである。

 その寝返りを工作したのは、実は長政だった。当然その他の寝返り組にも長政の根回しがある。

 それだけではない。家康方についた武将達は、元は秀吉恩顧の大名がほとんどであって、家康に付き従っていたわけではない。それを「反三成」の旗の下、家康の軍閥としてうまくまとめて、手綱を取っていたのが長政という男であった。

 そのように指示していたのは、他ならぬ官兵衛自身であったのだが、官兵衛は正直なところ、長政がここまで働けるとは思っても見なかった。

 官兵衛の夢は、実のところ足元から崩れていたのである。

 

 黒田長政は関が原の論功行賞で、筑前五十二万三千石に引き上げられた。大出世である。

「内布殿(家康)は戦のあと、この勝利は甲斐殿(長政)のおかげでござる、と申されまして、私の手を三度まで握られたのです」

 関が原から凱旋した長政は得意になって官兵衛に報告した。

 褒めてくれるかと思ったのか、はたまた自分を見くびっていた父を見返してやったと思ったのか。

 しかし官兵衛は苦々しげに、

「家康がとったというお前の手は、右手であったか、左手であったか」

 そう言う。長政が怪訝な顔をして、

「右手でございました」

と答えると、官兵衛は、

「ならばお前の左手は何をしていたのだ」

と吐き捨てた。

なぜ空いている左手で家康を刺し殺してしまわなかったのか、という意味である。

長政は絶句した。このときばかりは、父が得体の知れぬ怪物のように思えた。

 官兵衛としては、そこまでの才能を見せながら、九州の一大名に止まろうとする長政に苛立ちを覚えたのであろう。

 わが息子ながら、情けない。

 だが思い返してみると、長政のやっていたことは若い頃の、秀吉に天下を取らせることを楽しみにしていた自分にそっくりではないか。

 何のことはない。長政も、要はそういう男であったのだ。

 官兵衛は夢破れた悔しさを息子に当てつけている自分に気づくと、苦々しげに口の端をゆがめ、自嘲気味に笑いながら、愕然としている息子の肩を叩いて、その労をねぎらった。


戻る