堤防


 

 そんな昔の話じゃないが、在る所に大きな川があって、その川の両岸にはそれぞれ、太陽の登る方角の岸にはアサヒ町、沈む方角の岸にはユウヒ町という、小さな町が二つあった。

 二つの町はそれぞれ、その街の象徴となる花を、自分等の町の河川敷を利用した花畑で育てていて、氷が解けて風もぬるむ早春になると、アサヒ町では赤い花、ユウヒ町では青い花が、それは美しく咲き乱れ、そんな優雅な時期が来ると、決まって双方の町では、自分等の町の花にちなんだ、アサヒ町では紅祭り、ユウヒ町では藍祭りという祭りが開かれて、二つの町の民衆は、お互いの祭りを毎年楽しみにしていた。

しかしだ、二つの町を遮っている川というものは、それはそれは幅も広く大きくて、両者は渡し舟なしでは、行き来もままならず、隣町の祭りに参加したくとも、渡し舟の数はそれほど多くはないのだから、それがなかなか難しかったし、二つの祭りは、それぞれ同じ日に行われていたものだから、何時になったら乗れるかもわからないような、渡し舟の順番なんぞ気にしていたら、下手をすれば自分等の町の祭りを、楽しめないで終わってしまいそうだったものだから、二つの町の衆達は、お互いの祭りを自由に行き来し楽しむことなんて到底できないことと諦めようとし、毎年自分達の祭りだけを楽しみながらも、横目でしばしば彼岸に咲いた花を眺めていた。

 

ある日のことだ、二つの町との間に、立派な橋が一本作られた。その橋の幅は人が何人通ろうとも、まだまだ余裕があったから、これで、両方の民衆は来年から、双方の町の祭りを楽しめるようになったと、殆どの人が喜んだのだが、橋が出来たおかげで、生業を失ってしまった渡し舟屋達だけは、その橋が出来たことを善くは思わなかった。

ところでアサヒ町の渡し舟屋の一人にキリという男がいた、キリという男は、その頭も身なりも良くなかったことから町で腐った食べ物みたいに厄介がられ、そのため川の上が生活の場である渡し舟屋を生業していたが、橋ができて以来、仕事なんぞ殆ど無くなってしまっていたから、町で子供等を相手に屋台で飴を売る仕事をして何とかその日の夕食と、明日売る飴を買っていた。

キリは船をこぐのが好きだったが、かつて川の水を力強くかいていた、その右腕は、陸に上がってしまった今では、水飴ばかり、かき混ぜさせられていたものだから、遂にキリにその右腕は、「俺はこんなことするために、お前の腕をしてるんじゃないんだぞ、俺はトウトウと流れ続ける大河や、無限に広がる大海原の上で、波を作って行く手を阻もうとする水達にも負けずに、ちっぽけな舟を突き進ませる為に舵をとり、櫂で水をかきわける、そういう仕事をしたいのさ。」と文句を言うものだから、元来頭の中のことを上手く外に出すのが苦手で、しかのその上自分自身も常々そう思っていたて、それをなんとか暮らしの為にと、自らの心に必死に蓋をしていたというのに、そんな蓋を平気な顔をして取り去られてしまったのだから、どうしようもなく我慢できなくなってしまったキリは、「じゃあいいさ、お前はもう、俺の腕失格だ。お前を動かすために、食う飯が無駄になる。さっさと何処かに行っちまえ。」と言って、大事な右腕を手放してしまった。

しかしこうなって、一番困ったのはキリの腕だった。何てったって、今まではキリの腕として働いていれば、暮らすのには困らなかったというのに、これからは生きていくのに必要なことは全て、自分でやらなければならないのだ。しかし、けれどもと、キリの腕は思う、せっかく雲のように自由になったんじゃないか、それなら違う渡し舟屋や漁師の腕にしてもらって、再び船の上で水をかこうと、そして、それなら膳は急げとばかりに、キリの腕はキリのかつての渡し舟屋仲間や、漁師達に自分を使ってくれと頼んではみたのだけれども、彼等はみんな、まるで前から台詞が決まっていたかのように「お前さんの気持ちはわからんことも無いが、今俺達の仕事は、腕をもう一本雇うほど、余裕が無いんだよ。」というものだから、遂にキリの腕は行き場を失ってしまった。

次の日のことだ、行き場の無いキリの腕は、遂に自分ひとりで、川に出ようとした、自分一人なら、何もこの川の両岸を行ったり来たりなくても、海へ行って隣りの国まで行って見るのも悪くはない。何たって一人きりなのだから、他の者達に気を遣ってやらなくても良いのだから。しかし、そんなふうに、希望に心躍らせる、キリの腕にも、一つ大きな避けることのできない難題があって、アサヒ町から川に出るためには、低い堤防を越えなければならないのだが、単なる腕ででしかない、キリの腕には高すぎて、登ることなんぞ全くもって、できやしなかった。そこで困ったキリの腕は何時も同道巡りの輪っかになってしまっていた思考の渦を無理矢理、川のように真っ直ぐに伸ばした、すると不思議なことに自然に新しい考えが水の底から湧いてきた。キリの腕は何時の間にか、キリができなかったことが、できるようになっていたのだ。

キリの腕の考えは、キリの腕が自分で川へ行くのを辞めて、川のほうから、堤防の内側に来てもらおうというものだった。

いい方法が見付かって、すこぶる機嫌のよくなったキリの腕は、早速、空の神様に大雨を降らせてくださいと祈り始めた。幾らキリの腕でも今更、居るか居ないか解かったものでない、神様なんぞに祈るのは恥ずかしかったが、このままなにもしないでいても、どうしようも無かったし、何よりキリの腕のそばには、まともに仕事を持っている者は寄り付かなかったから、恥も掻き捨てとばかりに、イタコの婆さんみたいに一心不乱に祈り続けると、それが、天に届いたのか、それともただの偶然か、やがて必死に祈るキリの腕の上に、飴玉みたいな形をした、太った冷たい雨粒が、大勢でわんさか降りてきた。

その日の雨は、それはもう今まで誰も出くわしたことのなかったほどの大雨で、まるで大きな滝が、急に天に現れたかのようだったから、半日後には、川の水位はアサヒ町の、堤防の天辺まで後少しというところまできてしまった。けれども、その雨の水は、アサヒ町にはとうとう流れ込んでくることは無かった。なぜなら川の水は、アサヒ町の堤防を越える前に、向かいにあるアサヒ町よりも少しばかり低かった、ユウヒ町の堤防を越え、川から溢れた水は全て、ユウヒ町の方だけにながれていったからだった。そしてそれが祟って折角祭りのために、夕陽町の民衆が大切に育てておいた青い花の苗の全てが潰れるてしまったのだ。

これにはユウヒ町の民衆達も黙ってはおらず、すぐにアサヒ町に文句を言ったが、アサヒ町の民衆は皆、謗らぬ顔をして、こればかりは仕方ないことだと、言ったものだから、本当に怒ったユウヒ町の民衆は、自分達の町の堤防を黙って、アサヒ町のものより高くした。

次の月。その頃、キリの腕はというと、一度、計画が失敗してからは、とんと元気を無くしてしまっていたが、そんなキリの腕の悲しみが、再び天に届いたのか、はたまた、これもまた単なる偶然なのか、知る者は誰一人とて居ないのだが、また大雨が降り始めた。 

川の水位は前と同じようにみるみるうちに高くなっていったが、前と違うことも一つ起きた。なんと今度はアサヒ町の堤防の方が、水に乗り越えられてしまったのだ。そのおかげで、やっと蕾がつき始めていたアサヒ町の赤い花の花畑は全滅してしまったのだけれど、キリの腕はといえば、アサヒ町が洪水になったおかげで、堤防を越えずに、水と戯れることができて、計画は成功したのだけれど、よくよく考えれば、キリの船は飴売りの屋台を買うために、とうの昔に売り払ってしまっていたから、結局、船を漕ぐ事もできず、キリの腕はただ、どんぶりどんぶりと流されて行き、遠くの海まで運ばれて、キリの元に返ることも、この二つの町に戻ることも無かったから、この物語にも、もうキリの腕は出てくることは無いし、キリの腕の念願が叶い、最後に海にまで行けたことで幸せに成れたのか、不幸に成ってしまったのか、それを知るものはこの二つの町には、誰一人とて居ないのだし、あれから少しばかり時も過ぎすぎているから、この話しの中で語る事はもはやできないのである。

 

ところで話は戻り、アサヒ町の民衆はなぜ、この前、洪水にならなかった自分たちの町が、今度は水浸しになり、辛酸を舐めるはめになったのかと調べ始めた。

はじめ彼らは、川向こうのユウヒ町と、この洪水との繋がりなんて、ぜんぜん考えなかったのだけれども、橋の向こう側まで調査に行った、賢いことでアサヒ町一の評判を持つ若者のぴんが、橋を渡る最中に、何時の間にかユウヒ町の、橋と堤防の間の間隔が狭まっていることと、青い花の花畑の土が、先日、潰れてしまった自分の町の花畑の土のように、泥に変わっていない事に気が付いた。もし、ピン以外の人間がこの事に気が付いたとしても、アサヒ町の民衆は、隣の町のことを疑うなんて疑心暗鬼もいいところだと、相手にもしなかったかもしれないのだが、それに気付いたのが、他でもない町一番の賢者として有名な、ピンなのである。アサヒ町の町長はピンからそんな話を聞いたと、助役から耳にするや否や、一目散で橋を渡ってそれが真実であることを、自分の鯨みたいな大きな目で確認すると、そのまま、ユウヒ町の町長の所まで、事の次第を聞きに行った。

ユウヒ町の町長が、半時ばかり待たせていたアサヒ町の町長の前に現れたときには、アサヒ町の町長は、それはもう、顔を、作り途中のガラスの花瓶みたいさせて、ユウヒ町の町長に殴りかからんぐらいの形相で怒りながら、「何故、ユウヒ町は今回洪水に遭わなかったのだ。」と尋ねてくるものだから、気迫に押されて怖くなり、乾いた寒天みたいに小さくなったユウヒ町の町長は、ことの次第を洗いざらい、アサヒ町の町長に話してしまったから、次の日から、アサヒ町の堤防をユウヒ町のそれよりも高くする為の工事が、町長の勅命を受けたピンを中心に行われることになった。

季節がひとつ過ぎないうちに、ピンの力量は大いに発揮され、そこには前のものの倍ほどの高さのある、まるで川の淵に大蛇が寝そべっているような、立派な堤防が立った。これにはアサヒ町の町長も住民も、大喜びで、丁度季節も紅祭りの頃だったから、堤防完成のお祝いの祭りが、それはそれは盛大に行われ、工事をすばやく終わらせた、ピンは英雄の如く町の衆に賞賛されたのだが、そんな、賑やかさを尻目に対岸のユウヒ町では、人々が、荒れ果て乾いた、青い花の花畑を、堤防が高くなって全く見えなくなってしまった彼岸の赤い花のことを思い出しながら、疲れと怒りが入り混じった瞳で眺めていた。

 

季節がまたひとつ過ぎた。アサヒ町の人々は、堤防が高くなって、向こう側など殆ど見る機会が無くなってしまったから、もうユウヒ町の事なんか、全く気にも留めなくなっていて、何時しか橋を渡る人などは、遊びまわる子供等以外、殆ど居なくなっていた。

曇り空の朝だった、そんな橋の上で、遊びまわって居る子供等にキリは飴を売りに来ていた。キリは器用に片腕で、水飴を満月みたいなまん丸に形作ると子供等にそれを売り始めた。子供等がはしゃぎながら、それを舐めていると橋の向こう側から、なにやらきな臭そうな連中が、こちらに向かって行進してくる。ねえ、おじさんと一人の小僧がキリに声を掛けると、遂にキリもそれに気付いて、腰を抜かすほど驚きながらも、子供等と何とか町に戻り、町の衆や、町長に今さっき橋の上で見てきたことを、叫ぶように話始めたが、誰も子供等相手の商売人で、話も下手なうえ、町でも厄介がられているキリの言うことなんて信じなかった。 

しかし一人だけ彼の言葉が嘘かどうか確かめようとする男がいた。それこそが、今では町の英雄とさえなっていた、ピンだった。

ピンがひとたびキリの言葉の真相を確かめようと、川までの道を、独り狼のように、颯爽と走り出すと、それに続いて、今までそうでなかった町長や町の衆も彼の後に続いていった。そしていよいよ荒れ果てた赤い花の花畑を抜け、橋の袂にピンが到着した時には、ユウヒ町の敵兵がまさに橋を渡りきろうとする直前であったが、ピンは瞬時に事を把握すると、自ら近くの者達に橋を落とせと命令する。人々は、自分達の持っていた、斧や鍬などを振り上げて、木で作られた丈夫な橋の脚を、木こりも驚くぐらい早さで切り倒し、橋を崩して敵兵を立ち往生させ、すんでのところで町を守ったのである。そして再びこのことで、ピンはアサヒ町の英雄となった事は言うまでも無い。

 

それからまた季節がひとつ過ぎた、人々は橋も無くなって、遂に対岸の町のことなんぞ本当に気にしなくなっていたから、ある異変に気付かなかった。

ピンの奴は、もうその頃には、すっかり有名で、外に出れば取り巻きが大勢、まるで砂糖に群がるアリどものように付きまとってくるものだから、ほとほと心を疲れさせてしまい、ある朝こっそり町を抜け出し、堤防の上に登ったのだが、そこから見えたのは、彼の心を安らいだものに戻すような、ありのままの自然な世界などではなく、なんとも立派な、昔のそれとは見ても似つかない、しかも、いま足元に大蛇の如く横たわっているそれ以上に、高いであろう対岸の堤防が、まるでこちらを見下すように、その巨体を横たえているのだから、これには流石のピンも少しばかり驚いたが、ピンの頭にはその時、既に対岸の堤防よりも高い、アサヒ町の新しい堤防の建設計画が浮かび上がっていた。

 

次の季節がやってきた、アサヒ町の堤防は、また立派なものになり、高さだけでなく、幅も広くなった。人々は再び安堵し、みなピンに感謝したが、キリと、毎日キリのところに飴を買いに来る子供等は、堤防が大きくなってしまったことで、赤い花の花畑の一部が潰れてしまった事を、残念に思った。

 

しかし、朝日町の人々の安堵は次の季節には、いとも簡単に崩されてしまった。なんと、対岸の堤防がまた高くなり始めているのである。これではこのアサヒ町だけがまた洪水に遭うはめになってしまう。けれども、それにもピンは動じずに、また堤防を高くする工事を三度はじめたのだが、今度は対岸の堤防も同時に工事をしているのか、なかなか堤防の高さが、向こう岸のものに差をつけられないばかりか、少しでも気を抜いて休暇などを、とっていたりなどすれば、たちまち、高さを抜かれてしまいそうなので、工事は休み無く続けられ、次の季節、つまり紅祭りが行われるころには、キリは新しいアサヒ町の町長となり、限りなくまるで生き物のように成長してゆく堤防の下敷きとなり、河川敷に確かにあったはずの赤い花の花畑は、見る影も無く消えてしまい、ついには二つの町の堤防は、天へと高く聳え立つ巨大な二枚の壁となった。そしてそれは川の上流の山村からはまるで、二枚あわせの鏡のように見えたのだが、そんなことなど、この二つの町の民衆には知る由も無いのである。

キリは遂に堤防に踏み潰されて、無くなってしまった花畑に植えられていた花の苗を、自分の家の周りに植えてやると、飴を買いに来た子供等と、かつてこの町で行われていた祭りの思い出を語り合う。ある少女は、自分の弟や妹は、もう紅祭りを知らないと言うし、またある小僧は、もう今年は紅祭りができないことを残念だと言い、キリ自身はもうこの世から無くなってしまった、あの花畑のことを想い嘆いた。

そして、かつて二つの町で、紅祭りと藍祭りが行われていた日がやってきたが、互いの町の人々は、堤防の工事に忙しく、ある一部の者を除いては、今日がその日であることなど、とんと忘れていた。

その日の午後のことだった、急に青空に雲が多くなったと思うがいなや、前に二度あった大雨よりも、激しいくらいの土砂降りが二つの町を襲った。雨水は、によって川の水は、まばたきするたび水位を増して、二枚の堤防に挟まれた水面が、対峙する二枚の堤防の天辺あたりまでくると、ピンも遂には怖くなって、堤防の頂上にある工事現場から逃げ出すと、周りの工事を手伝っていた者達は、急に恐ろしくなって、みな混乱しその混乱が町にまで広がり、どうしようもなくなったその時だった、遂に水の圧力に耐えられなくなった、二枚の堤防は同時にまるで爆発したように、大量の水とともに崩れ去ると、町も人も何もかも全て、流されて、そこらには何も残らなかった。

 

それでも、何も無い川辺にも季節は当然のことのように流れる。全てが無に帰してしまってから、丁度一年が過ぎると、川の両端には、赤と青の花が入り混じって、大地を美しく染め、鳥達は歌い、蝶達は踊る。もしそこに、生き残った二つの町の者が居たとしたら、何故、彼等がそこまで楽しんでいられるのか、疑問に思うのかもしれないが、ここに無い物なんて、彼等にとっては無いのだから、彼等は幸せであり、だからと言ってそれを知らない者達は不幸であるのかということも考えられ無くは無いのだが、全て終わってしまってからでは、何をするにも遅すぎるのである。

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