雄鶏 


 

 雄鶏達は天に向かって何故嘆く。

 

    1 

 

 端的に言ってしまえば、妻は僕のことを単なる機械とでも思っていたのだと思う。だから彼女は彼と逝ってしまったのだろう。

 

その日も空は雨だった。特に意味なんて無い。これは単なる気象現象に過ぎないはずだ。

冷えきって重くなった手袋の中身を、どうにかこうにか動かして、僕はもう、黒焦げになってしまったようにくすんだ色の真鍮のドアノブをまわし、自宅に何故か恐る恐る侵入する。

 「あら、お帰りなさい。雨の中ご苦労様です。」

 何時ものように、電話機に向かって話しかけているような妻の声が僕の耳にまで届くころには、彼女はハト時計のハトみたいに、暖かいリビングの板チョコを思わせる扉をバタンと開いて、僕の所に擦り寄って来て。

 「お疲れでしょう、どうぞお風呂が沸いていますから。」

 と僕の鞄とコートを奪い取って、風呂場に行けと急かすのだ。どうやらここは、お菓子の家で、僕はヘンゼル、グレーテルはいったい何処にいるのだろうか。

 

まずは体を軽くすすいで、僕は湯船に静かに飛び乗る。魔女は僕でスープ作るつもりか、はたまた洗って食べるらしい。「魔」という文字が付くわりには、だいぶ理性的であるらしい。

今日も湯はきっかり38度だ、それ以上の温度の風呂なんて、妻と結婚してからは、温泉に行ったときぐらいしか、浸かるチャンスなど無い。

「おーい。今日は寒いから、温度を上げてもかまわないかい?」

木枯らしが、何かを削るように吹いている、こういう夜は風呂の水がどうも冷たく感じる。今年はまだ例年に比べて2℃ほど気温が高いので、今日まで我慢できたのだが、日中最高気温だ8.4℃という今日の寒さは、体に毒だと思うので、妻が丁度、僕の寝巻きを脱衣所に持ってきたときに、言葉を切り出した。

「だめですよ、その温度が一番体にいいんですよ。」

風呂場のドア向こう側に居るのは本当に妻なのだろうか、乳白色の磨りガラス越しから視認できるのは、奇妙にくねり、輪郭がホットミルクに落としたチョコレートのようにぼやけた黒い塊だけだ。

けれども、きっとこの生物は妻なのだろう、その証拠に、あの物体から発せられた音は、いつも彼女が僕に向かって話すときと同じように電話機越しの言葉だ。妻はどうやら、僕と会話する時、電話機を手放せないらしいのだ。

これは、妻の弱点だ。もはや幾ら(例えば路上に転がる空き缶や、せいたかノッポの三角形、はたまた海水まみれの貝柱に)姿を変えてしまったとしても、僕が一声掛ければ、彼女は電話機を隠しておけないはずだ。

 そして、そこまでしてまで、僕から逃れて、他の男の前で器用に変形した妻に、僕が声を一声掛けでもすれば、いい気になってナメクジになっていた彼女の顔が、塩を降りかけられたみたいになる一部始終を僕は体験できるのである。これは、愉快だ、いや滑稽だ、自分の発想ながら惚れ惚れする。だから僕はこの計画に『ナメクジ作戦』という名前をつけた。

「あなた、どうかしたの?」

僕が黙りこくって思索にふけっていたため、曇りガラスに溶け込んだ妻が、僕内面に渦巻く彼女自身の肖像も知らないで、返事を求めてきたので、僕は面白半分に少し不機嫌そうな口調で答えを口からねじり出す。

「そんなことは知ってるさ。」

「じゅあ、それでいいじゃないですか。」

「でも、これ以上冷えてしまっては風邪をひいてしまうよ。」

「大丈夫ですよ、ちゃんと温度設定を38度に保っておきますから、安心してきださい。」

そういって、磨りガラスの向こうの塊は、野生に戻り警戒心を増したのか、そそくさと脱衣所から、まるで小動物のように逃げ出した。

そんなことなら、答えなんて最初から求めるものじゃないよと言ってやろうと思ったが、妻などに僕の言葉の意味が伝わるわけも無さそうなので、僕は口まで湯に浸し、さっきの思案の続きを楽しむことにした。

それにしても、さっき思いついた『ナメクジ作戦』は、何時か実行してみたいものだ、すぐではなくても、なろべく近いうちにしてみたい。そう思うと、僕は嬉しくなって、風呂場に居ることも一つの重要な要因になってか、ある衝動に駆られるのだ。明日は倉庫に行く必要があるだろう。

 

風呂から上がるとそこには、よく乾いたパジャマが畳んであった。僕は体が冷めてしまわないうちにそれらをすばやく身に着けた。服を着るだけでも人間という動物は、だいぶ冷静になれるらしい、衝動は少しだけ弱まり、きっと廊下を渡ってリビングに着くころには僕は子供と同じになっているはずだ。

「お料理、できていますよ。」

オレンジ色の蛍光灯が消えかかっているリビングに戻ると、僕の席には既に、琥珀色したスープと、それを囲むように小鉢や茶碗がひしめき合っている。

「スープは熱いうちに。」

どうやらまだ、電話機が恋しいようだ。妻の様子が忙しなく、何か足りないような目蓋をストロボみたいに瞬かせるので、僕はそんなつもりはないのに、彼女の目を見ていられなくなるような演技を強要されるのだ。

「スープ、冷めてしまいますよ、早くお座りください。」

妻は、部屋の入り口で立ち尽くしている僕に、どうしてもスープを飲ませたいようだ。

『スープ作戦』

それが妻を、電話機以上に挙動不審にさせる原因なのだ。

妻は、要するに、毒入りスープで僕を殺そうとしている。保険関係の事は全て彼女にまかせっきりだから、今頃僕の生命保険の掛け金は、地球人口の推移のグラフか、さもなければゆるい反比例のグラフそっくりになっているに違いない。

しかし僕は思い直して言われたままに、席に座りスープにありつく。毒は極めて薄い物だ。あまり濃いものだと、突然死しまうから、保険会社に怪しまれる。

だからだんだん弱らせて、過労死ということにして、労災遺族金までせしめようという魂胆だろう。

ふと目を上げると妻の顔は判断不明の悦楽を湛え始めている。しかし、そんな顔をしていられるのは今のうちだ、もし『ナメクジ作戦』が成功すれば、その顔は背徳感、羞恥心で、いっぱいになるはずだ。

「何時もおいしいね、君のスープは。」

僕が飲み終えた皿を、机に置きながら、そう言うと、妻は一瞬ホッとしたようなしぐさをみせるが、すぐに電話機探しを始める。

問題の一つは解消しても、僕の言葉の返事をするには、電話機なしでは妻は不安で不安で仕方ないはずだ。

しかも今、僕は彼女を褒めたのだから、なろべく早く自分の回答が要求されているのである。もう、彼女には一刻の猶予も無いのだ。

「そう言ってもらえると、作りがいがありますね。」

以外に落ち着いている。女というものは、なんと巧妙にできているのだろうかと思う。なんだか空振りをしてしまったような気分になってしまった僕は、急にあの衝動と共に明日、倉庫に行かなければならないことを思い出した。

「明日は、帰らないよ。出張なんだ。」

「そうですか、気をつけてくださいな。」

妻の顔に影が落ちたか確認しようと思ったが、彼女はすぐに部屋をでていって、大きな鞄を用意してくれた。

答えなど判りきっていたのだ。

 

    2     

 

信ジル者ハ救ワレマス。

信ジヌ者ハ巣食ワレマス。

 

今や、どこに逃げても、この手のフレーズが耳に入らない所など、探せるはずはなかった。

最近の新興宗教ブームの引き金はやはり、『洪水』に原因があるらしい。連日続く雨は絶え間なく地表に降り注ぐため植物の根は腐り、第一次産業は破綻。それに続いて第二次、第三次産業も間も無く死を迎え、人類は死滅する。

そして、そういう異常気象のデータの解析を行った他でもないこの僕だ。

でもただ、死ぬのを待つのでは、人間もナメクジも変わらない。人間の人間たる所以は危機からの自己解放。我々は、方舟を完成させた。その方舟は、人々を乗せていつ終わるとも知れない(僕の調べたところでは、この洪水は約三千七百年ほどつづくという結果が出たが、方舟の耐久年数は安全のため高く見積もって、一万年以上になっている。)洪水の中耐え忍び、雨がやんだ後、新天地を見つけるため何代にもわたり生活できるだけの設備が整っている。

しかし、どんな乗り物にも乗車制限がある。幾ら僕等の方舟がノアのそれとは比べ物にならないほど巨大であるといっても、全人類を乗せることは出来ない。だから、今度、試験があるのだ、より優秀な人間だけを方舟に乗船させるためのテストだ、でも僕は船の設計にも携わっているのだから、コネで既に乗船券を獲得済みだ。

まあ、もしコネが無かったとしても問題はなかっただろう。僕がこんな試験に落ちるはずは無いのだから。

きっと、そうでない奴が、ああいうものにはまってしまう気持ちは解からなくも無いけれど。

しかし神なんてもの、本当に存在すると思っているのだろうか。

民族の神話を解く公式がある。

   Fx(a):Fy(b)Fb(x):Fa­¹(y)

この数式で算出した定数Fを僕の考案した数式に代入する。

   M:Se(m)F(Se):Se(a)/Se(b)

そうすれば、定数Mの値が、神になるはずだ。神なんてものはこれくらい難しいものだから、無知な人間はそれだけで、それを尊大であると認め、崇めてしまうのだろうか。

こういった宗教以外にも、世界の終わりを間近に控え、金に走る人間も多い。

妻もその一人だ。地獄の沙汰も何とやら、僕を殺して自分は生き残ろうと考えているのだろうけど、この毒のペースでは最後の日が来る前に僕を殺すことなんて出来ないはずだ。まあ、彼女がその事に気付くぐらい博学であれば、何もここまでする意味は無くなってしまうのだが。

 

町外れにさしかかると、地味で大きな建物が並んで座っている、倉庫街が見えてくる。何時もながらそこは水滴みたいに閑散としている。

僕はニョキニョキ大小かまわず野生の茸のように点在している倉庫郡をすり抜けて、自分が所有している小さな倉庫まで、道に迷ようことなく辿り着く。

こんなところまでこられる人間はよっぽど僕のように頭が良いか、運がいいかのどちらかだ。しかし、ここに来ることが出来たからといって、ただ運がよかっただけの人間は、喜ぶべきではないだろう。帰り道まで運がいいままだとは限らないのだから。

建物の前に立つ。風呂場で昨晩いきり立った衝動は、うまい具合に臨界点に近づこうとしていたので、僕は冷たく湿った空気を吸いすぎた肺を落ち着かせるのも待てずに、この気分に対して象徴的とも思える赤いインターフォンを、冷たく赤くなった指で、弄ぶように押した。

ジリリリリ

電話機のベルとは音質のまるで違う、倉庫の入り口のベル。雨のザアザアという雑音の中でもそれだけは鮮明だ。

「旦那様、こんばんは。今日はどんなご用件でしょうか。」

扉が開き、妻が出てくる。妻といっても、電話機を持っていない、これは『妻二号』だ。方舟の設計にも携わった僕にとって、本物の妻に似せて、人造人間を作り出すことなんて朝飯前のことだ。

「さっさと、二階に上がって、ベットでも繕っていろ、ここですることなんて決まっているじゃないか。」

どうも、人造人間という奴は、知識量も計算速度も人間以上だというのに、気が利かない。いや、わざとじらして楽しんでいるのかもしれない。ロボットだからといって、女には変わりないのだから。

「分かりました、すみません。」

妻二号は、トントントンと非常に正確なリズムを刻んで、赤錆だらけの階段を駆け上がっていった。

僕は、入り口からすぐの所に立ててある洋服立てに、濃い藍色のコートと帽子を掛けてから、階段の裏にある小さなシャワールームで体を洗う。

ここのシャワールームのタイルの目は何時見ても、とても美しい法則性のある並び方をしている。それだけでもウキウキしてくるのだが、二階では、妻二号が僕の来るのを待っているのだ。僕はタイルに未練を残しながらも、体を拭いて素っ裸のままスリッパだけを履いて、冷たい空気を掻き分けて、二回へと急ぐ。もう我慢の限界だ。

「旦那様、そんなに急がないでも、私は逃げませんよ、なにせ逃げるところが、ないですし。」

妻二号はツタに覆われた窓の横に寄り添うように置いてある、ダブルベットに、既に裸になって横たわっている。

「風情が無いな、君は。」

「でも、そのままでは冷えてしまいますよ、さあ、布団にお入りください。」

「いわれなくてもそうするさ。」

妻二号は、妻と違って、気持ちがいい、妻そっくりに作ったが、そうでない部分も幾つかはある。

 

一つ終わると、すっかり疲れてしまった。

錆付いて、やる気の欠片も感じられない鉄筋コンクリートの壁ずたいに視線を上げて何と無く二つの目玉は窓の外。

ツタとツタの間から、光の粒が飛び出した。

「星じゃないな、ヘリコプターのライトさ。」

空がもし、晴れていて液体燃料と酸素の混合物から成っている爆音さえなえれば、これも流れ星に見えたかもしれない。

「でも、奇麗ですよ。」

こいつらは、偽者同士仲がいいらしい。

そして僕は偽者ついでに、僕型人造人間『僕二号』の製作に取り掛かることにした。妻二号と遊んでいるのも詰まらない訳ではないが、結局夢中に成れるのは短いうちだけで、この歳になるとこれに限らず何にでもすぐに飽きる。

しかし、今回の『ナメクジ作戦』の事についてだけは、情熱がとまらずに、徹夜したことにも気づかないくらい、脳内のアドレナリンは増産体制に入っていて、「これじゃ、盆も正月も終末もあったもんじゃないですよ。」「でも、この不景気に仕事があるだけまだいいじゃありませんか、」「何言ってるんだい休みも無いのに働いたって意味が無い、休みがほしいからはたらくんだろ。」と脳の中で誰かが話しているようだった。

「もうちょっと、一緒に居てくださらないのですか?なんならもう一度だって。」

起き上がろうとした僕に対して、妻二号は未練がましく、毛布の間から深海魚の腹のような、奇妙なまで白い太ももをわざと僕に見せてくる。

「君は、蝶や花とおんなじだな、そんなことをしたって、君が一人きりなことには変わりなんて無いことぐらい知るべきさ。」

「ひどい。」

「ひどいのはどっちさ、君は人間じゃないんだ。幾らしたってどうなるもんじゃない。」

妻二号の太ももは、萎れたモヤシみたいに隠れてゆく。僕はなんだか寂しくなったが、そんなものは数学的な誤差に過ぎない。きっとこのままこうしていても、裸電球に群がる虻のように術中にはまるだけなのだ。

そう決心して僕は、そのまま一気にベットから飛び出して、カランカランと階段を下ってゆく。

逃亡は成功した。この理性こそ人間と猿の違いなのだろう。所詮、子孫を残すことなど我々の本質にはなりえないのだ。それならば男達は晴れて女達から毎週毎週贈られる、空しさからも解放されるはずだ。

開放宣言を受託した僕は、ずる休みをした子供のように、嬉しくなって裸のままスキップしながらシャワー室の隣の籠に入れてあった洋服達に手をかけるものの、そんな気持ちは例のごとく、すぐに色あせてしまった。

「何だよ。」

なんと、洋服達はぬれ雑巾のように湿ってしまって、とても着られるような状態で無くなっている。驚いて籠をずらすと、シャワー室の扉の閉め方が甘かったらしく、部屋の外まで水浸しになっている。

「最近雨が多いですから。」

と、裸のまま、いつの間にやら僕の背後にやってきた、妻二号。

「雨が多いからって、こいつとは関係ない。それより服を着ろ。」

「すみません、だんな様。でも、ここずっと、どこもかしこも冬だというのに湿気てるんです。」

「じゃあ、さっさと乾かすんだよ、このままじゃ風邪ひいてしまうよ。」

「わかりました。でも、それまでどうなさいますか?」

「毛布でも被って作業するさ。」

僕はそういって、二階へ毛布を取りに行く。妻二号は不満そうな顔を必死になって作ろうとするが、うまくいかないらしく半分笑った顔になって、鼻歌を歌いながら、まるで思春期の少女のように暖房器具を弄りだした。

 

信ジル者ハ救ワレマス。

信ジヌ者ハ巣食ワレマス。

終ワリノ日

信ジル者ハ天国へ

終ワリノ日

罪深キ者ハ奈落ノ地獄へ

終ワリノ日

浮世ハ煉獄

信ジヌ者ハココニ残リ

昨日ニ帰リテ涙シテ

明日ニ進ミテ怯エ続ケ

終ワリノ日

信ジル者ハ救ワレマス。

信ジヌ者ハ巣食ワレマス。

 

「おい、どこでそんな歌。」

二階から降りてきた僕の耳をくすぐる妻二号が歌っているのは紛れもなく、最近よく外で耳にするようになった曲だった。

「外の路地で、誰かが歌っていたんです。」

「他の歌を歌え。その歌は嫌いなんだ。」

「すみませんでした。でも、わたしこれ以外の歌知らないんです。」

「じゃあ、歌うな。」

妻二号は口を紡ぎ、薄暗い室内には、雨粒がトタン屋根に当たって砕ける規則正しいリズムだけが支配するようになったので、僕もやっと落ち浮いた。でも油断は禁物だ、蝶と花というものは、僕らが思う以上にしたたかなものなのだから。

僕は棺桶ぐらいの大きさの容器の中をシリコンで浸す。口にストローを咥えて鼻栓、耳栓をして裸のままそこに頭まで浸かって数十分もすれば、僕の完全な型が作れる寸法だ。

「固まったら、練習通りに切れ目を入れて僕を外に出すんだぞ、もし変なこと考えようたって、僕が死んだ時点で君も機能停止するようにプログラムしてあるからな。」

「分かっております、旦那様。」

妻二号は子供のような屈託のない笑顔で僕に答える。子供の笑顔を大人の体に貼り付けると、なかなか卑猥なものだ。

ずぶずぶずぶぶぶぶっぶ

体を容器に沈めてゆくと、生ぬるいシリコンが僕の肌に絡み付いて、毛穴の形まで真似しようと勤めてくる。首のところまでは、まずまず上出来だ。ここからは、目を瞑って息も口だけだ。躊躇っていても仕方が無いし、型を取る前にシリコンが固まってしまっては困るので、僕は決意を決めて、一思いに頭の先まで浸水させる。

何とかうまくいった様だ。シリコンは順調に固まり始めている。少し意識が遠くなってきた。さっき久しぶりに運動したからだろうか、それともこの中は蜜柑色の夕焼けにも似た母親の胎内に似ているのだろうか。

 

信ジル者ハ救ワレマス。

信ジヌ者ハ巣食ワレマス。

 

聞こえてないとでも思っているのか、妻二号はまた鼻歌を歌いだしている。それともこの歌は僕の頭の中に響いている曲なのだろうか。

 

視界一面、緑の植物に覆われていて茶色の土が顔を出せるような余地は無かった。これでは田舎に来ても都会のマンション街と変わらない。

空は見えても酷く窮屈に感じる。

「おかえりなさい。」

妻は植物の葉やつるの下から這い出して僕にそう言う。

「なに言っているんだい、さっぱり分かりかねるね。第一『お帰り』と言われてもね、ここは僕の家じゃない。」

妙に息苦しい、しかしこれは錯覚のはずだ、周囲にこれだけ植物があるのなら、逆に酸素濃度が高くてもいいはずだ。きっとこんな虚像に支配されてしまう原因はこの過剰なほどの緑の密度が原因に違いない。

「いいえ、ここは私達の家ですよ。お忘れですか?」

妻は遂におかしくなってしまったらしい、何時かそうなることは分かっていたし、スープ作りが大好きな彼女に同情なんてしたくも無かったけれども、いざ壊れてしまうと、不憫に思ってしまったりもしてしまう。これでは僕もまだまだ大人とはいえない。

「今スープを作りますから。」

「体が温まるのがいいなぁ。」

どうにも良心の呵責から、妻に合わせてしまう、ここは強く言うべきじゃないのかと思うものの、でも何と言えばいいのだろう。それより僕は彼女に今まで何を言ってきたのだろう、昨日と今日の話の相互性が取れなくては困るじゃないか。

思い出さなくてはと僕が頭をヤカンにしていると、彼女は琺瑯の少し大きめな丸い形の刃をしたスコップでザクザクザクザク土を掘り返しはじめた。

はじめは大雑把に土をかき回し、ある時を境に妻のスコップを持つ手は腫れ物に触るような繊細なものに移り変わった。覗き込むとスコップの先はなんだか芋でも掘り当てたらしく、その周囲の土を芋を傷つけないように取り除いているようだ。そしてみるみるうちに丸いかさぶたにも似た芋の素肌があらわになってゆく。

「あなた、この蔓を引っ張って、お芋を引き抜いてくださいな。」

僕は妻の言うがまま芋の蔓を手に巻きつけて一気に引っ張る。すると地面に沈んでいた芋は、弧を描いて空を舞う。どうやら形から推測するにこの芋はこんにゃく芋らしい。それにしてもこの行為にはニキビをつぶした時のような爽快感がある。是非もう一度体験してみたい、今度はちゃんとこの経験を克明に記憶し、いつでもこの快感が思い出せるように脳がなるはずだ。

「ありがとうごさいます。」

妻は僕からこんにゃく芋を受け取ると早速、食事の支度をはじめる。

「もう一本抜かないのかい?」

「このお芋、大きいですから一つで十分ですよ。」

妻は無意識的に僕の計画を破綻させるために動くようにできているらしい、しかしそんなことで僕も負けてはいられない。せっせと仕度を始めた彼女に僕は言い返した。

「いやいや、ぜんぜん足らないね。後でどうせ困るのだから、今のうちに抜いておこうじゃないか。」

僕は妻の足元にあった、さっきの小さいスコップを手に取ると、蔓の生えている根元の部分の土にスコップの丸い刃を突き刺した。よく見るとスコップのプラスチックの柄の部分には、絵本や漫画のキャラクターのシールが所狭しと貼ってある。一体どういうつもりだろうか。

畑の土は赤く乾いていた、とても農業には適しているとは言えない状態だが、もしかしたらこうなってしまったのはこのこんにゃく芋達が全ての養分を吸い尽くしてしまったからかもしれないのだ。スコップを幾ら動かしても、さらさらに乾いてしまった土は掘れば、掘った分だけまた埋まる。どうやらここでの芋掘りは熟練した腕が必要なようだが、なぜ妻がその秘術を習得していたかは定かでない。まあ、どうせスーパーの週刊誌売り場での立ち読みが、その知識の出所である可能性が高いので、そう複雑な技術ではないと思うが。

しかし、そうは思ってもなかなか上手くいかないので、そろそろ我慢も限界だ、僕は遂に痺れを切らして芋の蔓に手をかけて一気に力を込めた。

「そのままじゃ、」

「うるさい、何とかなるさ。」

芋の蔓が根元から、何の前触れも無く急にプチンと切れた 僕は勢い余って転がって、後ろ頭を打ってしまった。

 

夢から目覚めると、既に、型は完成して、妻二号はせっせと、人工皮膚の加工に取り組んでいた。

「旦那様、お目覚めになりましたか。」

妻二号は、また子供のような笑みを浮かべて、それでも作業の手を緩めようとはしない、どうやら彼女の指は、寒さにかじかんで動かなくなるようなことは無いようだ、僕が思った以上に人工皮膚の熱伝導率と保温性は、優れているらしい。

「もうすぐ、出来上がりますから。あと、洋服もストーブの近くにありますよ、もう乾いていればいいのですけれど。」

体を包むように、かけられていた毛布から這い出ると何だか、貝殻を無くしたヤドカリの気持ちが少し分かったような気分になった。幸運にも服は乾いていたのでこんな淋しい感覚にはさっさとおさらばできると、僕の心は弾んだけれども。妻二号はさっきと同じように、半分笑った顔になる。

「旦那様は、何故ご自分のコピーを。」

型にちゃんとグリスを塗ってから整形したようで、人工皮膚は簡単に型から離れる。妻二号は油まみれのそれを大きな流しでジャブジャブジャブジャブ中性洗剤のシャボン玉を作りながら洗っている。

「復讐さ。」

シャボン玉の中に、妻二号が上下左右逆になって写っている。色白で髪の毛の黒以外は殆ど白一色の彼女の姿も今ばかりは七色だ。こうしてみると本当に蝶や花と大差が無い。

「服ぐらい着ろ。」

「すみません、今着ます。」

 人工皮膚を洗い終えると妻二号は、二階に上がっていった。皮膚の温度感覚を自在に遮断できる彼女にとっては、別にこの寒さは大したことは無いかもしれないが、彼女の目的は別の所にあるのだから、未然に誘惑の武器を捥いでおいた方が、僕だって心置きなく復讐の鬼になれるというものだ。

 今はあのいまいましい電話機を壊す事だけに集中すればいい。自分の身の開放など、その後で十分だ。

 

    3 

 

 「明日も出張がある。」

 僕はスープを飲みながら、電話機をこそこそ隠している妻に嘘の塊を打ち明ける。

 「最近多いですね、お体壊さないでくださいよ。」

 妻は僕に話の答えをするときは、一瞬下を向いたり、キッチンまで鍋を見に行ったりと、巧妙かつ熟練した動作で電話機を使ってくるのだ。

 けれども、僕は最近電話機にばっかり集中してしまって彼女が何を話しているのかはさっぱり覚えていないように思う、彼女は一体何を考えているか、そんな事はどうでもいいのだが、少し復讐の伏線にでもと妻の困りそうなことを聞いてみる。

 「君はどうするつもりだい?」

 「洪水の事ですか?」

 「それ以外に何がある。」

 「私は、ここを離れてまで行きたくはないです。でも、あなたは行くのでしょ。」

 「当たり前さ。なんなら君も連れてってあげるよ、乗船資格を得たものの配偶者と子供にも、乗船権が与えられるからね。」

 僕はそうは言ってみるものの、妻が僕に付いてくるとはこれっぽっちも思っちゃいない、付いてくるつもりがあるのなら、毒入りスープは要らないはずだ。 

 「貴方がついてきてほしいって言うなら、私も行くわよ。でも人数制限があるし、私なんかが乗っつたって……。」

 意外な返答に僕の心は一瞬逆立つが、何とか顔には出さないで済んだ。どうせ社交辞令だ、妻は昔から僕と違って外交的な面があるから、騙されてはいけない、こういう人種は信じてしまうと後が怖い。

 僕は妻の口からこれ以上予定外の言葉が出ても戸惑わないように、彼女の頭を茄子だと思い込むようにする。

 電話機を片手に持った茄子。

 僕が食事を終えると茄子は食器を片付けて、ジャブジャブジャブジャブ洗い出す。そんなに水を使ったら、電話機がショウトしてしまうだろうに、茄子はお構いなしにジャブジャブジャブ。そんな茄子を見ていると、早く茄子をナメクジにしたくなる。ナメクジの事を考えると倉庫に行きたくてたまらなくなる。これはかなりの悪循環だ、どうやら妻二号の計算速度の速さを忘れていたらしい、本当は今にでもこんな家から這い出して、妻二号を抱きたいというのに、それにどうせ、彼女は昨日作った僕の皮を抱きしめては、おぞましい妄想にふけっているに違いない。彼女の処理能力なら三次元映像も自由のままだ。自分の皮を倉庫に置いたままにしたのは間違いだったかもしれない。

 「どうしたんですか、難しい顔をなさって。」

 妻の電話機越しと思われる声が、僕の思考を止める。

 「別にたいしたことは無いさ。今日は疲れたよ、もう寝ることにするよ。」

「そうですか、おやすみなさい。」

「お休み。」

僕はそういって、ゼリーかグミキャンディーのようになって、床に入る。

 

信ジル者ハ救ワレマス。

信ジヌ者ハ巣食ワレマス。

 

枕越しに聞こえてきたのは、妻の鼻歌。妻二号それとまったく同じだ。僕の前以外では電話機は不要ということだ。

 

信ジル者ハ救ワレマス。

信ジヌ者ハ巣食ワレマス。

 

気づくと夢の中にいた。

夢の中でどうしてそれが夢であるか判ったのかという疑問があったが、ちょっとした空気の違和感と、そこが、非ユーグリット幾何学の支配する空間であることから、そこが夢の中であり、同時にそこがトポロジーの空想実験には相応しい場所であると僕は確信した。

まず僕は僕の皮をトポロジーの観点から分析してみることにした、まず頭、毛穴は数えないことにして、目玉の穴が二つ、耳の穴が二つ、鼻の穴が二つ、口が一つ。続いて上半身、ここは乳首の穴が二つ、へそが一つ。最後に下半身だ、尿道一つ、肛門一つ。計僕には12個の穴が存在する。ここからトポロジーの力を借りることにしよう。

僕の皮をゴム幕にしてみる。そしてそのゴム幕を、人間の形から球に近づけてゆくと、最後には12個の穴を持つ球形のゴム幕になる。次にその穴の一つを、思い切って大きく広げて、球を円形の板状にする。

そう、一つの穴の円周をこのゴム幕全ての円周、つまり側面にする。この時点でゴム幕は11個の穴のあいた円形のレンコンの薄切り状の形になる。そして今度は全ての穴の部分を広げてゆく、すると幕の部分は減ってゆき、最後には11個の8の字型に連なった輪ゴムみたいなものになる。つまり僕の原型的要素は11個の輪ゴムの集合体だ。逆に輪ゴムの集合体をさっきとは反対の順序に進んでゆけば、どんな顔のどんな体型の人間にだってこの輪ゴム達は変身することができるのだ。

これはすごい、この共通点だけは、人類皆兄弟と言えるのではないだろうか?この真理の前では、宗教戦争も、イデオロギー同士の衝突、貿易摩擦、はたまた異母兄弟同士の争いなんていうものもありえないものになるのではないだろうか、いやそんなものは無機化されるどころではすまずに、その概念さえも人類の言語体系から追い出されるはずだ。今日こそ数学と科学が神となる記念日に相応しい。

僕は嬉しくなった、なんせこれで世界は再び一つになるのだ。

「ちょっと待ってください旦那様。」

妻二号がなぜか現れたと思えば、自分の皮をTシャツみたいにペロンと脱いだ。それはなんともスムーズで、茹でたサトイモの皮を剥く時にも似た感覚と同じものだった。

「私の皮の下半身を見てください。ほら、男性は尿道と生殖管が同じですが、女性の場合は尿道と生殖管は別々なんですよ。それくらい大人の常識です。しっかりしてくださいな。」

そういわれればまったくその通りだ、妻二号が力説するのも無理はない。ということは女性は男性より穴の数が一つ多いのだから、12個の輪ゴムからできているということになる。人類皆同じなんてものは本当にないらしい。

 また神は遠くなった。

 「ありがとう、本当に忘れかけていたよ。もしこのまま人にこの話をしていたら笑われるところだったよ。」

 「どういたしまして。」

 

 翌日、仕事が長引いたので、倉庫街に着いたのは、もう夜も遅くなってからだった。

 それにしても今日は一段と雨が酷い、これではまるで水時計の中にでも閉じ込められたみたいだ。

 迷路を通って僕が僕の倉庫の前に立つと、倉庫の巻き込み式のもう錆で動かなくなってしまったシャッターに張り紙がしてあった。

 

信ジル者ハ救ワレマス。

信ジヌ者ハ巣食ワレマス。

 

 雨に濡れてにじんではいたけれど、言葉はいつの間にか耳に寄生していたので、すぐにそうかいてあると判った。

 しかし、いったい誰がこんなところに。街中ではよく張られているが、わざわざこんな迷路のど真ん中まで来て、こんな紙を貼ってゆくなんて非合理的だ。僕は気持ち悪くなってきたのでその張り紙を地面に破り捨て、踏みちぎると、紙は雨に流れて溶けていってしまった。

 何とか気がまぎれたので、僕は赤いボタンをしっかり指で押し込んだ。

ジリリリリ

 「旦那様、お帰りなさい。」

 妻二号は既に一糸まとわぬ姿で戸を開けてきた。

 「遅かったですね、ずっと準備して待っていたのですよ、さあ、冷えましたでしょう、シャワーを浴びてくださいませ。」

 妻二号はそう言うと、僕のコートやYシャツを脱がせ始め、寒い部屋で僕を全裸にするとシャワー室まで誘導し、自分も一緒にそこに入って僕の体まで洗ってくれた。

 「綺麗になりましたよ、さあ、お二階へ。」

 しかし、その頃には僕の思考は既にナメクジ作戦への熱意に占領されてしまっていて、二階に上がる気にはなれなくなっていた。どうやら妻二号の態度が生理的に良くなかったらしい。

 「今日はそんなことはどうでもいいんだ、僕の服を持ってきてくれ、あと君も服を着て、僕二号の製作を手伝うんだよ。」

 「本当に今日は?」

 「だから、早くしろ。」

 「嫌です。このままじゃ、私は一人ぼっちのままじゃないですか。」

 「何を言ってるんだい。そんなこと、どうもいいし、どうにも成らないことだろう。」

 「じゃあ、せめて何か……そうだ、そうですよ、野菜を育ててみたいのですが。」

 「野菜?」

 「はい、外では無理ですけれど、倉庫の奥に、前の人が使っていた水耕栽培の装置と、野菜の種があるんです。」

 「分かったよ、したければすればいいさ。」

 「ありがとうございます。」

 妻二号は笑おうと必死になって、泣いていた。

 

    4  

 

 僕二号が完成する頃には、機械化された町並みにも、もみの木がいたる所に立つようになっていた。

 そんな聖夜も当然の事ながら、雨は止まずに降っていて、多くの人々はこの星で迎える最後の聖夜がこの調子ではと少しばかりの落胆を卑しみつつも楽しんでいた。

しかし僕はそんな事どこ吹く風と、そ知らぬ顔で計画の実行を目の前にして、ケラケラと乾いた笑顔を泣き続ける夜空に向かって見せびらかしては、それでも幸せそうな家族や恋人達のたむろする、ガード下の商店街を闊歩する。

 今日みたいな日は、プレゼントでも買っていかないと、不自然さが出て計画に支障をきたすかもしれない。僕は小さな家具屋に入った、別に大した意味は無い、その店が近かった。

 古ぼけた店の中央には、また古ぼけた箱が在った。何の変哲も無い木の箱。それはとても面白いとは呼べないものなのだが、僕はその箱の持つ抽象的な形に心惹かれていた。

人間というものは抽象観念に心惹かれるものだ。なぜなら、我々は同じ種であるにもかかわらず、共通了解が不足しがちだ。既に人間の固体は、種としての役割にまで達してしまっているのだという説がある。もしそれが本当であるのならば、犬と猿が分かり合えないように、人類皆兄弟ということは、まずありえない。

 

箱を買って、倉庫に戻ると、僕二号の試験運転は、もう終了し、異常は無かったと妻二号は報告した。

僕は、箱を下ろすと、いったいそれが何であるのか調べることにした、メジャーを持ってこさせ側面を計ると、縦24センチ、横32センチ、高さ28センチの直方体であることが判明した。これは人間工学の見地から、地面からこの箱に登るのに適している高さであることに加え、ちょうど底辺の面積も足を二本乗せるのに支障の無い物だったので、僕はこれを、踏み台として、僕二号に妻へのプレゼントとして渡すようにとプログラムする。

 「旦那様も行かれるのですか?」

 「当たり前だろ、あいつが、この僕二号とよろしくやっているところで、でていって、驚かせてやるのさ。」

 「あのぅ、旦那様。私の元形になられた旦那様の奥さまはそんなにひどい方なのですか?」

 「ああそうさ、そうでなかったら君なんて作らないさ。」

 妻二号は、黙ったままで僕の買ってきた箱を、あの震えることのない指で綺麗な包み紙に器用に包んでゆく。

 

 僕は、僕二号を家の前までつれてくると、先に僕二号を家に入れ、自分は外からリビングの窓越しに二人の様子を観察することにした。

 僕二号の演技は完璧だ、妻は何も気づいていないようで作戦はいたって順調と言えたが、一つ誤算があった。

 その誤算とは、あの箱だった。僕二号が妻にプレゼントとしてそれを渡すまでは良かった、悪魔でも僕二号に落ち度は無い、ただその箱を受け取った妻が、踏み台であるはずの箱の上に花瓶を置いてしまったのだ。

これではもはやあの箱は踏み台では無く。単なる台に成ってしまったのだ。やはり妻は僕とは決して相容れる気は無いらしい。

 しかしだ、まあいい。『ナメクジ作戦』はここからが重要なのだかから。

 僕二号は出されたスープと七面鳥(スープにはもちろん、七面鳥には今までより高濃度の毒物が混入されているに違いない)を平ら得ると、間も無く皿洗いを始めた妻に後ろから抱き付いた。

 妻は一瞬脅えた犬のような表情になるが、何かに感づいたのか赤いひらひらの大きなヒレを持った金魚の口を真似したように、濡れた自分の唇をパクパクさせて何か言っている。

 ざあざあざあざあざあざあ

 窓越しでしかも、雨の中では妻の言葉は聞き取れないが、どうせ安い愛の言葉か、いやに飾った雄鶏の鶏冠を見とれて、淫らな鳴き声を発するメンドリにでもなっているのだろう。おそらくそろそろ、電話機も手放してナメクジと化すに違いない。

 どさっと二人はその場に倒れこんだ、いよいよだ。

 「本当に化け物だよ、化粧をするくらいだからな。」

 口の中で呟いて僕は、玄関へ移動し家の中に進入する。もうすぐ、計画は実行に移されるのだ。一歩一歩、廊下を、音を立てずに踏みしめて、喜びを噛み締める。

 このドアを開けば、その向こうにナメクジと化した妻と僕二号。彼女はもう僕二号が僕でないことに気がついていて、あえてしているだろうか、それとも違いに気づくこともできずに、しているのだろうか。どちらにしても彼女は罪からは逃れられない。こちらに圧倒的に分があるということだ。

 パタン

 ドアを開く、自分の鼓動の音が自分の耳に響いている。あと数歩、歩いてリビングにくっついたキッチンにまで行けば、僕二号とくっついた淫らなナメクジの姿が拝めるはずだ。

 僕はスキップしていた、床が軽く悲鳴を上げたが気になどしない、そして二人が崩れた所に辿り着いた。

 

 信ジル者ハ救ワレマス。

信ジヌ者ハ巣食ワレマス。

 

そこにあったものは、この前、僕の倉庫に貼ってあったものと同じ貼り紙一枚だけだで、勝手口が開いていたから、雨粒が扉の近くの床をナメクジみたいに濡らしていた。

 「勝手な奴等だ。」

 僕はリビングに残されて、惨めに台にされていた箱を花瓶ごと拾い上げると、花瓶は床に放り投げ、鍋に半分以上残っていたスープを一気に体に流し込もうとして、雨でただでさえ濡れてしまっていたYシャツとジャケットとレインコートはますます見ていられないような姿にしてしまったが、運良く口に入ったスープは今までになく美味しかった。

 

 奴等の逃げる場所なんて解かっていた、僕二号は僕に成りすまして妻とともに方舟に乗り込むつもりだ。

「こんちくしょー。何が信じる者は救われます。信じぬ者は巣食われますだ。」

僕は雨の中、箱と二人が身代わりに置いていった貼り紙を握り締めて走り続けた。

方舟乗り場につく頃は、雨も霧雨に成って港中靄がかかって視界がとれなかったが、船着場だけは目玉焼きの黄身みたいに白熱灯がともっていたので、迷うことなく僕はそこに向かって機関車みたいに走っていけた。

「なあに、大丈夫さ向こうは偽者、こっちは本物なんだ。」

 しかし、せっかく走ってきたのに、船着場には人気なんぞは殆んど無く、しかも方舟も見当たらないし、白熱灯の光と思っていた光源も今ではほとんど見られ無くなったカンテラの火だった。

僕が怖くなって見渡すと、そこにはただ背中の曲がったの老人が一人いるだけだった。

 「あの方舟は?」

 僕が老人に尋ねると、彼は眠たそうに口を開けた。

 「少し前に、いや、だいぶ前かも知れんな、みんな行ってしまったよ。」

 「何でなんだよ。」

 僕は老人を突き飛ばすと、彼は海の中で海老に成ったようだ。

 雨は止み始めていた。

 

    5

 

 港から、倉庫街までの道のりはそう遠いものではなかった。

 ビニール袋は風に乗って飛んでいる。あんまり優雅なものだから、最初は白鳥に見えたけれど、今や白鳥も方舟の中。そして、それとは対照的な痩せこけた雄鶏が僕の前を横切って行った、今時ニワトリなんて珍しいとも思わなかったが、その雄鶏に親近感さえ覚える自分が恥ずかしくなって、見られて困る人は誰も居るはずがないのに、辺りをキョロキョロ見回してしまう。

なぜか雨は止んでしまった、誰に頼んだ訳でも無いのに。

 ジリリリリ

 ベルを鳴らすといつもの事ながら、妻二号が僕を出迎える。

 「旦那様、どうなさったのですか!もうだいぶ前に船は……。」

 驚いたときの妻二号の表情を僕は気に入っている。

 「何所にも、帰る場所がないんだ……いや、君に会いに来たのかもしれないな。」

 「引き寄せられたのですか?」

 「いいや、万有引力さ。」

 「でも、見てくださいませ虹ですよ、綺麗ですね。」

 いつの間にか虹が出ている。久方ぶりの日の光りと、大気中の水蒸気量がちょうどいい具合なのだろう。さっきの雄鶏の鶏冠の湿気の具合も、あのみすぼらしい雄鶏に似つかわしくないほどに理想的なものだった。

 「君は僕より視力がいいから、僕には君のようには。」

 「そうですか、でも、私にはあの虹が美しいって分りますよ。」

 「それは、君のプログラムにそういうふうにインプットしてあるからさ。」

 「そうですか、でも虹は虹ですから。」

 「何が言いたいんだ?」

 「私は、信じていますよ。」

 「なんだよ、人間でもないくせにじらすんじゃない。」

 「旦那様は、私を愛していらっしゃると。」

 「バカ言うんじゃない。」

 「申し訳ございません。」

 

 そのあと僕等は二階上って、何時もと同じようにしていると、ジャブジャブジャブと階段のほうから音がするので、そっちへ二人で目をやると、雨は止んだというのに水位はどんどん上がってきて、ベットの足をやさしく撫で回し、すぐにそれを取り込んでしまった。

 「旦那様、さあこっちへ。」

妻二号が僕達と同じように絡んだ蔦が茂っている窓をこじ開けるとそこにはこんにゃくでできた船が横付けされている。

僕と妻二号は裸のまま毛布を被っただけで、それに乗り込む。

「出発しますよ。」

「ちょっとまて、忘れ物があるんだ。」

僕は一度ベットの上に戻り、その隣に夫婦のようにつけてある棚に置いておいた、箱と僕二号と妻の身代わりの貼り紙を持って船に戻る。

「いいぞ。」

「それでは出発いたします。」

船がゆっくりと動き出すと、間も無く水位もまた上昇して、二階建ての僕の倉庫も沈んでしまった。

「いつの間にこんなもの作ったんだ。」

こんにゃく製の船はぶよぶよしていて、それだけで発情本能に火をつける。

「例の水耕栽培でこんにゃく芋を作っていましたから。」

水位はますます上がっていったようで、高いビルも山ももう水の底らしい。

「この船は、私の子供なんです。」

よくわからない事言う。バグだろうか、まあ、そんなことはもうどうでもいい。僕は手に持っていた貼り紙を妻二号に渡し、歌ってくれとせがむと、彼女は快くそれを引き受け、子気味善いテンポで歌いだす。

 

信じる者は救われます。

信じぬ者は巣食われます。

終わりの日

信じる者は天国へ

終わりの日

罪深き者は奈落の地獄へ

終わりの日

浮世は煉獄

信じぬ者はここに残り

昨日に帰りて涙して

明日に進みて怯え続け

終わりの日

信じる者は救われます。

 

 歌い終わると僕は妻二号を抱きしめた。彼女はずっとそうしていて欲しいと言うので、ずっと僕等はこんにゃくみたいにどろどろにになって一つになっていたから、三日ぐらい後に彼女の電池が切れて動かなくなったときは、どうやら僕の半分も向こう側に連れてゆかれたようにも感じたから、前から産みの親だからと思って、てっきり僕は自分の方が彼女よりずっと自立した、大人なはずだと思っていたけれど、結局依存していた子供は僕の方で、もともと僕の中にあったのだと思っていたものも、本当は最初から彼女のものだったのかもしれない。

 

 最近、雨はとんと降らなくなった。

 妻二号はこんにゃく船も一緒に連れて行った。別に責めるつもりはない彼女には、あのこんにゃくしか自分の本当の仲間は居なかったのだから、こんにゃく自身もそれで幸せだったのだと思う。

 僕は毛布を被り、箱の上に座るようにして大きすぎるビー玉のうみに浮かんでいる。膝から下は水に浸かってしまうけれども、日照り続きなお陰で水温は38度で丁度いい湯加減だ。

 昨日はイルカの群れに遭遇した、箱舟は操作しづらいので近づくことはできなかったけれども、遠目に見てもあれは波のうねりなんかではなくて、イルカの大群だったに違いないのだ。

 前方に島が見えた、なかなか大きな島だから、昔は高い山の頂上だったのかもしれない。

 僕は手に持っている、字が海水でにじんでしまって、もう何が書いてあるのか分からなくなった紙を筒状に丸めて望遠鏡のように覗くと、一瞬だけれども人の影らしき物が見えた。もしかしたらあそこには仲間がいるのかもしれない。

 そして僕は空を見上げて、港で出会った雄鶏がまさか飛んではいないかと視線を頭上に泳がすと、予想通り飛びこんでくるものは金魚鉢の空だけだった。

 

ああ、アブラハムの神よ、イサクの神よ、ヤコブの神よ、どうかこの僕の叫びを聞いていてください。

 

僕はあなた以外を神だとは思いません。

僕は、あなたに似せた、彫刻を作りません。

僕はあなたの名前をみだりに口にしたりしません。

 日曜日、僕は何もしません。

 僕は父と母を敬います。

 僕は何も殺しません。

 僕は姦淫しません。

 僕は何も盗みません。

 僕は嘘をつきません。

 僕は人の家を勝手にむさぼったりしません。

 

だからどうかお願いします。水位がどんなに上がっても、今のままでは天に手が届かないのです。


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