土竜    

                   一

 先ごろからのだらだらと続く出口の無い不景気の波が、遂に僕の働いている町工場にも押し寄せたらしく、僕の工場は呆気無くその波に潰されてしまい、自動的に僕は明日のパンにも困るような身分に成ってしまった。

                   二

 もう三日も何も口にしていない。ガリガリに成って目も虚ろな僕が街をフラフラ歩いていても周りを歩いている人間達は、僕を助けようともし無いし、それどころか奴等はそんな僕を好奇の眼差しで一瞥すると皆決まって僕を避けて道の端を渡って行くのである。普通、人間は三日も空腹が続くと正常な思考を失う、そしてそんな人間が街をうろついているとどんな事が起こるかぐらい一寸考えれば分りそうなものだが、周りは僕を助け様ともしないのである。全くこの世の中はどうなっているのだろうか。

 ふと、角のパン屋の換気口から何とも美味そうな香りがした。『パンを食べたい』と僕の頭の内側で自動的にそんな単語が浮かんだが、しかし困った事に金が無い。もし普通の人間なら『パンを今食べるのは諦める』という選択肢が浮かんだかもしれないが、今の僕にはそんなモノは浮かばず、次の瞬間パンを貪っている僕がそこにいた。周りで怒声や悲鳴が絶え間無く鳴り響いていた。

                   三

 僕は今檻の中に居る。檻の中と言うものは何と退屈で窮屈な所だろうか。

 そして僕は束縛されているこの空間である種の違和感を覚えていた、それは本当に微々たるものなのだが、僕にはどうもこの檻の中の世界と外の世界とでは同じ次元で無いように感じたのである。そうきっと、こちら側と向こう側とでは一見、繋がっている様に見えるのだけれども、実際にはそうでは無いのかもしれないし、それに僕は前からこちら側を檻の中だと一極端に考えていたが、良く考えてみるとそれにも矛盾するものが有ると感じ始めていた。だがそれが何故かと言われると、上手くは分らないのだけれども、僕は檻の外に居た時よりも、檻の中に居る今の方がずっと幸せのなである、なぜならばここに居れば働かなくても飯が食えるのである。必然的に考えて檻の外より檻の中の方が居心地が良いはずがないので、こちら側こそ外側と考えるのが妥当であろう、そしてそう思う様にすると僕の心は急に軽くなって刑務所の外に飛んで行き、外の広い世界を目の当たりにしてすぐに、僕の居る世界の狭さに改めて気づかされ再び湿気を吸って重みを増して、僕の体に戻って来たから僕は少しうんざりする。

 ところで、戻って来た心の奴は、僕の心中なんぞには気になどせずに、なぜ僕の居る檻の外の世界より檻の向こう側の檻の中の世界の方が広いのかと言う疑問を投げかけて来るのである。「さて、何故だろう。」僕もそう思う。

 「ほら飯だ。」

 看守が向こう側の世界からこちら側の世界に食べ物を差し入れて来た。そしてそれが僕の心が持ってきた疑問の突破口となる。

 そう、そうなのである僕は向こう側の世界の食べ物を食べ続けているから、何時まで経っても向こうの世界の成分が体に残ってしまって、一人前のこちら側の人間に成れないで居るのである。だから半人前の僕はこんな狭い檻の外に居なければ成らないのだ。     

 ならばと僕は今居る檻の外側に何か食べ物が無いかと周りを見渡したが、食べものらしい食べ物はさっき看守が持ってきた物くらいしかなく他にあるものといえば、微かにアンモニア臭を漂わせるトイレと、硬いマットレスのベッドそして、この世界を仕切っている壁くらいである、どれもこれも元々こちら側の世界にある物は食えそうも無い奴等ばかりだけれども、しかしそれは、僕が食えないと思いこんでいるだけであって実際は食えるのかもしれない。そう思いつくと、僕は膳は急げとばかり壁に噛り付いた。壁が歯と喧嘩してガリガリと音を立てる、口の中で消化を良くする為にじっくりと壁を咀嚼していると、だんだん壁の味が口の中に広がってくる。思いの外それは悪い味では無く、むしろ美味いくらいだったので、僕は思わず無我夢中に成って壁を食らって行くと次第に外の光が目に入ってきた。そう僕はやっと一人前のこちら側の人間として広い世界に旅立つことが出来るのである。

                   四

 やっと新しい世界への素晴らしい門出を迎えた僕だったが、この世界には既に沢山の先客達がいて、まるで以前、僕が居た世界とそっくりなのである。この世界もすべての人間が幸せに成るには狭すぎるらしく、後から来た僕は、この世界の幸せに成れる人間の枠から漏れてしまったらしく、僕は再び明日のパンにも困る身分に逆戻りしてしまった。

                   五

 もう五日も何も口にしてい無い。三日目で正常な思考を失った僕の心は、四日目で人間としての感情を失い、そして今日、僕は心そのものを、失おうとしている。

 ふと僕の前に丸々と太った紳士が通りかかった、彼は僕という存在に気づくと、ゴキブリを見る様な目で僕を睨め付けたが、次の瞬間彼の太った頭が急に割れたかと思うと、その中から赤く生暖かい液体がドロドロと流れ出してきた、そして同じように僕の右手に握られたコンクリート製のブロックにもそれと同じ液体がべっとりと付着していた。  

 そう僕が殺したのだ。別に彼の立場に嫉妬したり、変な目で見られて腹が立ったからと言う訳ではない、ただ太ったいた彼がどうしようもなく美味そうに見えたから、ただそれだけだったから、僕の手の平は真っ赤に染まってしまったけれども、心まで赤く成れたわけでは無かった。

 そして、気がつくと僕は彼の頭から流れ出す液体をすすっていた、その時僕を支配しているのは人の心では無く獣の心だった。周りで悲鳴や声になら無い叫び声が、うめきとなって鳴り響いていた。

                   六

 ぼくは再び檻に入れられた。

 「御前は脱走中に人を殺っちまったからなぁ、極刑になるかもしれねーな。でも今度は壁を破って逃げようとしたってそうは行かないぜ、なんせここは地下だからなぁ、もし壁を破っても出てくるのは外じゃ無くて土だぜ。」

 看守が意地悪のつもりでそう僕に言ったみたいだったが、その時既に僕は壁を破ろうだなんてこれっぽちも考えてはい無かったし、もう僕にはそんな新しい世界への希望を持つための気力も思考力も残ってはい無かった、そのはずだったのだが、毎日壁を見ているうちに、なんだか無償にそれを食べたくなってしまった。ガリガリガリ久しぶりに食べた壁の味は以前と変わらず美味い物だった。

 しばらく我を忘れて食べ続けて行くと当然の事ながら土が、茶色い湿った顔を崩しながら僕の前に現れた。僕はほんの一瞬迷ったが『なぁに元々、土から出来てる壁が食えるのだから、食えないはずは無いさ。』とすぐ思い直して今度は土を食べる事にした。土は壁なんかよりずっと美味しかったし軟らかかったので、壁を食べる時の何倍ものスピードで休み無く何かに取り憑かれたかの様に、僕は壁を食べ続ける事が出来た。

 そして数時間もすると、僕は自分で土を食べて作り上げたトンネルの中を四つん這いになって黙々と前進し続けていた。前へ進めば進むほど僕の背後を照らす外の光はだんだん小さくなってゆき、そのうちドサッという音と供にトンネルの入り口が崩れたのか、僕のただでさえ薄暗かった視界は暗黒の闇に閉ざされ、もう何も見えなくなってしまった。

                   七

 明かりが無くなってしまった事で僕はやっと今自分が置かれている深刻な状況に気づかされ、元居た所に戻ろうともがこうとしたのだが、僕の作ったトンネルは身を折り返すには狭すぎて、もう戻ろうとしても戻れないという事実が決定的となると、急に目頭が熱く成った。確かにこの土の中の世界には先客も居なければ空腹も束縛も無いだが、何かが足りないのである。しかしそれが僕には分らない、もう人間で無くなってしまった僕には分らないのである。

 僕は泣き続けながら、土を食べ続けながら、トンネルを作り続けながら、決して出口など無い土の中を進み続けながら、土竜に成っていった。体中毛むくじゃらになり爪は硬く鋭く、嗅覚は研ぎ澄まされて加えて、その代償として目が退化した事で何時に間にか涙も止まった。そして土竜は思うのだ、もう二度と、太陽の下に出る事は無いのだろうと。

 

 

                                                                戻る