メイドさんの美しさ


前置きが長いのですが、メイド話です。

「美しい」という言葉は、少々難しい言葉だと思う。例えば、「美しい絵」とか「美しい動作」とか「美しい音色」とか「美しいメイドさん」といった具体的事物に「美しい」という形容詞をつける場合は違和感は無いけれど、「美しい国家」とか「美しい思想」とか「美しい魂」とかいったように、抽象的な概念や事物に対して使われた時、何とも「居づらさ」みたいなものを覚えてしまう。

「美しい」という言葉はとても「美しい」のだけれど、美しいって人間に解るものは、結局、目に見えたり耳で聞くことが出来たりと、知覚できるものぐらいなんじゃないだろうか?だから、「国家」とか「思想」とか「魂」みたいな目に見えないものは、人間にはそれが美しいのか、醜いのか解らない。それなのに何となくカッコいい言い回しなので使っているというのが今の現状なのだと思う。

よく、最近、日本語が崩れてきているといわれるけれど、じゃあ「美しい日本語」って何だ?文章は目に見えるから、綺麗、汚いが解るけど、文章は言葉自体じゃない。言葉というものには決まった形なんか無いのだ。だから文法的に「聞きやすい日本語」はあるとしても「美しい日本語」っていうものは無いのだ。

若い人たちが、昔と違う言い回しで言葉を使っているとか、敬語がおかしいとか言うけど、そういうことを批判する人たちは、江戸時代の日本語をどうして喋らないのだろう?その辺の理屈が良くわからない。

要するに、言葉の問題は別物として、「美しい」という言葉には、かなり強い力がある。だからあんまり使い過ぎない方がいいのだ。

まあ、ここまでは、本当にどうでもいい前置きだ。ここからが本番。さっき、「美しい」は知覚できるものにしか、使うべきじゃないと書いたけど。例えば、急にメイドさんの乳が美しいと、メイドさん自身に言いたくなるとする。しかしメイドさんの乳はエプロンドレスに隠れて見えない。このままじゃ、メイドさんの乳が綺麗なのかそうじゃないのか解らないから、軽率な発言は出来ない。

しかし、知覚というものは、何も視覚だけではない。聴覚もある。しかし耳からメイドさんの乳が美しいかどうかは預かり知れない。それでは嗅覚はどうか?近くに寄ればメイド臭はするだろうけど、その香りが乳からだけのものとは限らない。じゃあ触覚は?確かに触れば形がだいたいわかるから、本当に美しいかどうかわかるかもしれないけれど、メイドさんの乳を触っては、セクハラになる。

最後に残ったのは味覚だ。メイドさんの乳は美味か?この場合、メイドさんの乳の味は、乳の表面を舐めた時の味か?それとも母乳の味なのか?イマイチ見当がつかないし、どちらか解ればいいと思う。しかしここでも問題だ、母乳は妊娠しないと出ないから、メイドさんに孕ませる必要が生じる。

メイドさんを脱がすのはセクハラなので出来ない。我々はこのままでは、メイドさんの乳が美しいかどうか判別できないと思ったが、そんなことは無い。別にメイドさんを妊娠させるのに、メイドさんを脱がせる必要は無いのではないだろうか?メイド服を着たままでいいんじゃないか?そして、メイドさんが母乳を出すようになったら、少しコップにとってもらって、味を確かめれば、メイドさんを脱がさずに、美味かどうか解る。

そう、この方法を使えば、メイドさんにセクハラせずに、メイドさんに乳が美しいか解るのだ、皆さんも試してみては?

 

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