メイドの本質

 

〜エプロンドレスっ子とメイドの違い、そしてメイドさんへ〜

 

まず、エプロンドレスっ子(メイド服を着ただけのコスプレイヤー)とメイドはどう違うかを考えてみよう。

 

確かに、両者とも多くの場合、外見は一致する。簡単に言えばどちらもメイド服を着ている女性だ。ではこの両者を分かつものとは何か?それは主人の有無だ。こう考えれば、前者はただ単にエプロンドレスを着ているだけだが、後者はエプロンドレスを着て主人に仕えているという風に区別できる。

 

では、主人に仕えていれば、メイドであるかといわれればそうではない、なぜならば主人に仕える職業は他にもある。一番近いところで言うのなら、家政婦だ。彼女等はメイドと同じ仕事をするが、メイド服を着ていない、だからメイドとはいえない。

 

ここから解るように、メイドがメイドであれる条件は、少なくとも『メイド服を着ていること』、『主人が居る事』の二つあると考えられる。これを基にして考えれば、イベントの時、メイド服を着ている人々は唯のメイドのコスプレといえるだろうし、メイド喫茶の店員もちろんメイド服を着用しているし、一応雇い主や、お客という形で主人が居るというふうに考えられるので、メイドといっても、差し支えないかもしれない。

 

しかし、ここまでの議論ではまだ、メイドという枠の中にある質の差というものが上手く説明できない。具体的に言えば、世の中では『メイド』と『メイドさん』がよく混同されて使われているけど、その二つはかなり違うか、全く別のものなのではないかという疑問だ。

 

では、『メイド』と『メイドさん』の違いはどうか?これには様々な考え方があると思われる。例えば、昔イギリスに居たのが、本当の『メイド』で、今居るのはそれを模倣した『メイドさん』だとか、『メイド』は夜のお供をしない人で『メイドさん』はそこまでするとか、二次元は『メイドさん』で、三次元は『メイド』だとかそういう考え方もあるだろう。

 

しかし、私はもっと別のところに『メイド』と『メイドさん』を分かつところはあるのだと思う、そして、その中心的な役割を果たすのが、メイドと主人の関係性であると確信している。

 

では、その、メイドと主人の関係性とは何か?というそのことの前に、今この文章を読んでいられる方々の中には、『メイド』と『メイドさん』を分かつものさしがメイド自身にあるのではなくて、主人との関係性などという、メイドにしてみれば、自分自身のことである内側ではなく外側にあるのだと思われるかもしれないが、それはメイドの特性をもう一度思い出していただけばなっとくしていただけると思う。

 

そう、メイドはただメイド服を着ていればメイドに成れるわけではない、主人が居なければ、メイドはめいどとして存在できないのだ。だからメイドという存在の重要な部分は主人とメイドの2人で、作っている。つまりエプロンドレスを着ている女生徒と主人の間に、メイドさんは生成されている言える。

 

例えを解りやすく変えるのならば、唯の女性は白い色の卵で例えるとする。そこにエプロンドレス、ここでは黄色い布だと考えよう。当然白い卵(女性)を黄色い布で包めば(エプロンドレスを着せれば)その卵は黄色くなる。この状態をエプロンドレスっ子としよう。では肝心のメイドとはどういう常態か?メイドは主人が居る事で成り立つといったから、主人に例えて、黄色い卵の隣にもう一つ卵を隣に置く、まあ、こうすれば、メイドさんといえなくないが、これでは実はまだ不十分だ。なぜならば、エプロンドレスっ子がメイドになるということは、主人が出来きたその時点で、両者の間に関係性が構築されることで成り立つのだ。

 

主人とメイドの間の関係性、それをここではセロハンに例えよう。黄色い卵の隣に卵が置かれると、その間に関係性、つまりセロハン(ここでは赤にしておく)が構築され、二つの卵の周りを囲う。するとどうだろう、今まで黄色い卵だったものがオレンジの卵に見えるようになった。そう、このオレンジの卵がメイドといえるだろう。ここで大切なのは、黄色い卵自体は何も変化がないということだ、別に絵の具を塗られて色が変わったわけではないから、主人が居なくなり、セロハンがとり払われてしまえば、また唯の黄色い卵、つまりエプロンドレスっ子に戻るということだ。

 

けれども、メイドと主人の関係性は様々あるように、セロハンにも色々な色がある。例えばセロハンが赤ではなく青ならば、卵は緑色になるだろう。そう、関係性が違えば、メイドの質も同じように変わるのだ、これが『メイド』と『メイドさん』の違いだ。

 

では具体的に『メイド』と『メイドさん』の主人との関係性はどう違うのか?僕が思うに、それは『愛』だ。

 

『愛』といっても、単に恋愛感情とかその類ではない。どちらかといえば愛着に近いかもしれない。話は変わるが、メイドは職業であって、仕事の階層で言えば労働者といえる。労働者は、資本主義のこの社会において、好きな仕事に就けるので、今の仕事に満足していなければ、他の会社、他の業種に転職してもいい。いわば、賃金や待遇さえ良ければ、労働者の多くは、今の雇い主から、待遇のいい雇い主に移ってしまうだろう。そしてこれの逆も考えられて、雇用主はその労働者より優れた人材が見つかれば、今までの労働者をクビにして、新しい優秀な労働者に雇いなおすだろう。

 

そしてメイドの世界にもこれが言える。メイドと主人が資本主義的な、疎外された関係であるならば、メイドの方も、もっと給料のいい主人が見つかれば、新しい主人に乗り換えるだろうし、主人ももっとカワイイメイドが見つかれば乗り換えるかもしれない。私としては、こういった主人とメイドの間の関係性が、疎外された関係である場合そのメイドを『メイド』と呼びたい。

 

では『メイドさん』とはどういう関係性の上に成り立っているのか?それは、メイドさんが労働者であると考えれば、社会主事的(マルクスが新婚当時考えていた社会主義、ソ連の体制とか、レーニン主義とかのじゃ無くて)な関係といえる。例えてしまえば、労働者であるメイドさんも雇用主である主人も、身分の差を越えて互いに愛着を持っているから、他にどんなにいいメイドや主人が現れても、お互いを捨てたりしないという信頼関係を持っている関係性といえる。どちらかといえば、家族や友人に近い関係性を主人と築いているメイドこそ『メイドさん』と呼べるのではないだろうか?


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