皮膚というのは難しい。ここで議論する皮膚とは、単なる医学的に定義される皮膚ではなく、精神現象としての皮膚だ。

 

皮膚と言うのは外界と内界の境だから、とても曖昧だ。ちなみに赤ん坊にはまだ、自分の外と自分の中の境界が頭に概念として入っていないそうで、そうなってくると皮膚というものは彼らにとっては存在しなくなる。

 

皮膚は、人が成長して、鏡像段階を経て、やっと自分の形(目と鼻と口と耳が顔にあって、髪の毛が生えてて、手足が四本あって、胴体も胸とか腹とかしりがあるのが自分の形らしいと、認識すること)を知るわけだ。そしてそのとき初めて、皮膚と言うものが、自分の表面に位置づけられる。それ以前の赤ん坊では、外も内も無いから、皮膚は世界そのものだ。

 

そうやって、人は『世界』から切り離される。しかしながら、すべての人が同じような皮膚に対する認識を持っているかと言えばそうじゃない。文化や個人の価値観でかなり変わってくる。

 

例をあげよう。例えば南国の原住民などは、みな殆ど裸の格好で一日を過ごす。日本でも、年配の人はぴっちりした服しか着ないが、若い人の中には、へそだしやすごいミニスカートで、太ももまで露出している人も居る。こういう場合、彼等の皮膚の概念はどうなっているのだろうか?

 

整理してみよう。何故、人は裸で行動しないのか?寒さや危険から身を守るという意味もあるが、もっと根本的な理由として、裸だと恥ずかしいからということがある。しかし、裸とは一体なんだろう?

 

南の国の原住民の人々は確かに一般的に裸だ。しかし殆どの場合、腰巻ぐらいはしている。彼等にとって、裸とは腰巻を取った状態だ。しかし、日本人の年配の方の場合、腰巻では無いにしろ、もし少し派手めな露出の多い服装をしたとしても、裸で歩いているように恥ずかしがるだろうし、イスラム圏の女性は、顔の肌さえ出してはならない場合があり、そこで顔を出して歩いていたとしたなら、一種の露出狂のように言われてしまう。このように、文化や個人の考え方にによって、違いがあるものの、共通して言えるのは、皮膚には『裸に数えられる皮膚』と『裸に数えられない皮膚(つまり露出していい皮膚)』があると言うことだ。

 

では何故に、皮膚には二種類あるのか?それは動物としての人間と、人間としての人間を分けるためだ。当たり前だけど、人間も生物だから、動物の一種だ。だから食べなきゃいけないし、排泄しなきゃいけないし、増えるためにムフフな事をするし、出産するし、死んだりもする。でも、これを何処でもやっていては、人間は自分が動物と一緒じゃん、やばい野蛮だよこれって、思ってしまう。

 

そこで、人は、食べる時は料理する、死んだら埋葬するなどして動物的部分の形を変えた。でも、排泄と性交と出産は形を変えようが無い。そこで隠すことにしたのだ。そう、『裸に数えられる皮膚』は隠さないと、人間が動物的な部分を残していると気づいてしまう部分なのだ。だから人は裸になると、人間なのに、他の動物同じになるから恥ずかしいと感じる。

 

何となく皮膚と言うものが解りかけてきたけれど、それでは、本題に入ろう。では『メイドさん』にとって皮膚とはどこか?メイドさんの皮膚はエプロンドレスだ。

 

メイドさんにとっては、エプロンドレスが皮膚だから、メイド服を着てお仕事している時は何時も裸でいるようなものだ。だから何時もドキドキしているのだ。これは何時も自分の中の動物性をむき出しにして生活しているということだ。メイドさんにとっては、排泄や性交、出産は日常からはなれたものではなくて、何時もそこにあるものだ。だから、どこでそれが起こってもおかしくは無いが、排泄は部屋が汚れるのでトイレに行くし。出産は危険なので病院に行く。しかし性的な行為は、そういう制約が無いから、すぐにご主人様を襲ってしまうのだ。

 

こういうわけで、メイドさんはもともと裸なわけなので、ご主人様と情事をするときも着たままなのだと推察出来る。

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