その目はだいぶ前からこの部屋の壁に張り付いて、僕を見ていたんだ。

 始めからおかしいとは思っていよ、なんてったってここは一等地だって言うのにね、家賃が安すすぎるじゃないか、でも、そのゆえんがこんなところに現れるだなんて、僕もそうそう考え付かなかったから、大家に文句を言う気も起こらなかったし、目のヤツもそこから動き出したりしなかったものだから、僕はその目の正体を、かわいい女性か何かと思いこめば、少しは楽しく思えてきたから、それこそ、ふざけて酷い事もしてみたし、その逆に、赤ん坊みたいに敬って目薬なんかを、さしてやることだってしていたよ。

 でも、もうそんな僕等の甘い生活も今日で終わりさ、君は僕を裏切って外を出歩いたじゃないか、駅で見かけた、壁の目と、どこまでもソックリなあのドングリみたいに、うそぶいた、鈍い光を反射する君の瞳。でもそれだけなら僕も怒ったりなんかしないのさ、僕が怒っているその理由は、君の目が張子のような君の体に、引っ付いていたからなんだ。

 君にとって体なんて、必要なものなのかい?君は僕にその瞳で語ってくれたじゃないか、自分はただ見るだけの存在だって……そうだよ、人間には目だけで十分なんだ、瞳は何よりも何かを語ってくれる。目だけで生きていれば人間誰しも孤独から解放される、そのはずなのに。口を使って言葉を出せば、その気持ちは人の支配に置かれてしまって、たちまちよそよそしいものになってしまうじゃないか!

 だから僕はその壁の君に、近所のまるで、黒こげの食パンみたいに崩れてしまいそうな雑貨屋で、買った疲れたナイフを突き刺すと、悲しみみたいなヤクザな紙コップで、涙の代わりに流れ出す朱色の水を集めて君の、言い訳を聴くことにする。

 「何をするんだ、これは見る権利の剥奪じゃないか!」君はまた僕を裏切って言葉を発したね。

「でも、それは君の体にあの忌々しい口がなければの話だよ、僕にはプライバシーの権利があるんだ。」しかし、それを聞いた君は今までの力をますます失って。

 「君は見てしまったんだね、それは僕も悪いとは思うよ、でも君は誤解しているんだ、君は僕の血を朱色と言ったけれど、」「何言ってるんだ、僕はそんなこと言ってないさ。」「瞳が語っていたんだよ。君にだって覚えがあるだろ、こういう不思議な力が人間にはあるはずなんだよ。いいや、僕の言いたかったことはこんなことじゃないんだ、僕の言いたかったことは紙コップの中身は赤いってことなんだ。」

 いまさら何を君は言いたいんだい?僕も始めはそう思ったよ、でもこの血の色を言葉に変えた時点で、色は変わってしまうんだね。あの夕日の色も、トマトの色も目で見た色と、口に出した色はちがうんだよ。

 君は出て行った。

 そして僕は初めて、この部屋が北向きで、雨漏りがして、床板が剥がれかかっていることに気付いたんだ。

 

戻る