機械化             

 


 その機械は、仕事でろくに家に帰らない父が、一月下旬のある日曜日に突然置いていったものでした。

 父は、「この機械は、中に液体触媒が入ってて、寒い現場事務所に置いたままにしておくと、中身が凍って使い物にならなくなるから、出番が来るまで家で預かっていてくれ。」と言って、僕等に無理やり、その機械を押し付けてしまい、最後に「この機械は何百万もするものだから、くれぐれも扱いには気を付けてくれよ。」と念だけ押して、僕等が「こんなもの預かってといわれてもこまっちゃうよ。」と言おうとするより早く、茶色の玄関から、灰色の空の下に出て行くと、彼もすぐにグレーに染まって、埃まみれの青い我が家のマイカーをその細い目で一瞥する暇もなく、会社で借りている、百メートルも歩けば似たような型が見つかりそうな、詰まらない車に乗って、ハンカチと鼻紙と他に幾つかの忘れ物をして、北へ向いました。

 母は、そんな父に、いつも笑顔で「いってらっしゃい。」と手を振って、ドアが閉まれば、すぐに「また忘れ物してる。ホント、しつけが成っていないんだから、だから末っ子は……。」と毎日同じ複雑すぎる定形文を、十円玉と一緒に並べていました。

 

 ところで、父の置いていった機械の外観はは、群青色のボディーに銀色の配管と、スイッチと、鋲が幾つも付着しているというもので、僕等はそのデザインに特に好意を感じられませんでしたし、何百万円もするという、それの子守をさせられることに何らかの重圧感も感じていましたので、すっかり、その機械を蹴り飛ばしてやりたい気分に成りましたが、けれども、いざ実行しようとすると、足は勝手に機械ではなくて、自分のもう片方の足を蹴りつけていました。

今考えれば、きっと、そんな僕の意気地のない挑発が、いけなかったのだと思います。

機械はその体質から、一日中暖房の効いているリビングに居座りたがりました。母も僕も妹も最初は廊下にでも置いといてやればいいだろうと思ってはいましたけれども、機械の無言の威圧感には堪えられるはずもなく、それはとうとう母親の手で、リビングの床に招きいれられました。

 

リビングに機械が来てから一週間ほどが過ぎたときだったと思います。

僕が部屋に掃除機をかけるついでと思って、家中の埃を一掃してやろうと、せっせといろんな物を吸い込ませていますと、間もなくリビングに辿り着き、そのまま鼻歌でも歌いながら、調子に乗って掃除機を走らせていた時です。勢いあまって、ガツンと床に鎮座している機械の奴に掃除機の枝がぶつかってしまいました。

最初は特に気にしませんでしたが、しばらくすると氷水のように冷たい床板から、体中に何かが広がってゆくような気もしてきましたから、とうとう僕も不安になって機械に傷でも付いていてはたいへんと、機械の隅々まで調べずにはいられなくなってしまいました。

幸い機械には目立った傷もなく、どうやら機能に影響もありそうもありませんでした。

僕は一息ついてコーヒーでも煎れようとも思いましたが、ふと、頭の片隅には、もし何か不慮の事故が起きて機械が壊れてしまったのなら、何百万円もの大金を弁償するほど僕には甲斐性なんてある訳がないという、足の小指の先まで凍えてしまいそうな不安がよぎっていきます。

そうすると僕は当然、いてもたってもいられなくなり。そして、さっき掃除機をかけているときに起きた事を母と妹の話してみると、彼女たちも、機械の上にバック落としてしまったり、味噌汁を零してしまったことがあると、笑い話なったので、全員顔を爬虫類のように青く変色させました。

そしてそんな事実が明るみに出てからは、とうとう機械は父の座っていた、今は空席となっている椅子に鎮座する権利さえ得てしまいましたが、僕はといえばなんだか、藁半紙がひっくり返ったようにホッとして、今までハラハラさせてくれた、何千円の価値もないボロ掃除機を蹴りつけていました。

 

それでも、気の休まったのはほんの数日だけのことでした。

次第に春がやって来たのか、外の空気まで温まると、野良猫の集団が大繁殖を始めたので、天気がいいからといって、いい気持ちになっておちおち窓を開けていると、野良猫達の大部隊が家の中にまで進軍してきて、ひょっとしたら、金目のものをすべて持ち去ってしまいそうな次第です。

そして、今現在狙われそうなものといえば、我が家の一員のなかで一番価値のある、あの機械の他にはなく、僕等は機械を連れ去られないように努力する義務まで与えられてしまったのです。

最初のうち、僕等は、戸締りをキチンとする事を何よりも心がけましたが、そんな僕等のささやかな抵抗まで、あざけ笑うように遂に野良猫達は、何処で習ってきたのか(きっと、この機械を狙っている輩に違いありませんが)猫達は起用に爪と肉球を使って、鍵を外から開けようとしてくるじゃありませんか。

これには、僕らも半分呆れてしまいましたが、何時までも呆れていては、大切な機械が危険に晒されるのは目に見えていますので、厳戒態勢で家中見回りは欠かせなくなり、そのため旅行は愚か、三人そろって出かけることなんて、とてもじゃありませんができなくなりましたし、野良猫の処分を役所に頼んでも、毎週担当の役人が変わっていってしまうので、話が進むことなんてまずありえませんでした。

 

そして、そんな戦争状態にあったある日のことです。父が唐突に帰ってきて、出番が来たので機械を現場に連れてゆくと言ってきました。

僕らも遂に肩の荷が下りると、まるで遠足をしている小学生のような気分になりましたが、よく考えてみれば、いつも忘れ物を欠かさない父親などに、あの機械を安全に現場まで連れて行くだけの、注意力があるはずがありません。なので、僕等は機械の身の安全の為に父には「機械は盗まれてしまった。」と嘘をついて、彼には「窮屈ですまないね、暫らく我慢だから。」と言い聞かせて、押入れの奥に隠しました。

それから起きた事は、単に金銭的で低俗な責任問題と父と母の関係悪化という、極めて私的で、全く機械には関係も無い事ぐらいだったので、僕等にとってはそんな事、大したことではありませんでしたが、しかし、その後の平和な日常のなかでも一番肝を冷やさせてくれたのは、相変わらずに野良猫の大群だけでした。

 
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