泥棒

 

「私どもにはこの……あなたの土地が必要なのです。だから、どうかここを、お売りしていただけはしないでしょうか?」

 「ですがねぇ、毎日こうやって来てもらってもね、何時も言ってますが、この土地は私らだけの土地というわけではないんですよ、先祖代々受け継いだ……。」

 「それは……お気持ちは分かりますよ、でも、ここに駅ができればですね(僕は懐から建設予定の路線図を取り出し広げて)ほら、この辺りは、こんなに便利になるんですよ。」

 「そうは言いますけど、ここにはバスだって何本も通っていますし、私らは困ったことなんて。」

 「しかしですね、見てくださいよ窓の外、どうです、近頃の再開発でこの辺りもだいぶ高いビルも建ちましたし、住人だって増えましたでしょ、ですからもうバスだけでは……いいえ、もちろんバスの本数だって、前から増やしてはいるんですよ、しかしですね、このままではいずれ……ほら、また新しい高層マンションが建ち始めてるでしょう、いずれにしろこの辺りの交通機関はパンク寸前なんですよ。」

 「あなたの言ってることは、分からんのではないんですよ。そりゃ私だって、近くに地下鉄ができれば、それだけ便利になるしね、それだけなら結構な話ですよ。けれどもねぇ、なんでよりにもよって、私の土地に駅をつくるんですかねぇ。」

 「ですからね、それはですね、」

 「もう、何度も何度も説明なんてしないでくだい、あなたの言いたいのはどうせ、ちょうどこの下を走っている在来線とあなたんところで新しく作る線路が、この地下で交差して、それで乗換えが便利なようにってここに在来線の新設駅と一緒にってこでしょ。そんなことは百も承知ですよ。もう耳にタコができそうなぐらい聞かされましたからね。けれどね、私が聞きたいのは、合点がいかないのはね、なんで再開発の影響に私らが犠牲にならなきゃならないんです!おかしいじゃない、私らはずっと前からここにいたんですよ、立ち退くなら交通網パンクとやらを起こしてる張本人のマンションでも、雑居ビルにでも立ち退いてもらえばいいでしょ。」

 「ですから、ちょっと落ち着いてくださいよ、あのですね、ですからね、私どものほうで、代わりの土地も、お金もですね、用意させていただいてる訳で……。」

 「そういう問題じゃないんですよ、まだ、あなたには分からないんですか、もういいです、今日はもう帰ってください。それと、また明日来てもらっても答えは変わりませんから!」

 

 「ええ、また収穫なしですよ。」と、僕が携帯電話の向こうの課長に言ったなら、彼は、まんまと僕を叱る権利を与えられたことが、とても嬉しくてしかないのでしょう、彼の妻への愚痴と一緒に長い長い説教がはじまります。

けれどもだいたいよく考えてもみてください。携帯電話の使用料金を払っているのはこっちなのですから、これも経費で落としてでもしてもらわなければ、先方より先に、僕の方が家賃が払えなくなって、立ち退きを求められてしまうかもしれないのですから、まったくもって、たまったものではありません。

 そもそも、こうやって毎日毎日『あの家』に、通わされているのも課長が僕にそう命令したのが始まりでした。課長曰く「立ち退かないなら三顧の礼だろ、誠意ってもんを見せれば、この国の連中は自分の意見なんてコロコロかわる。」のだそうで、そんな輸入品に毛を生やしたみたいな、いかにもうさんくさい仮説を立証するための、誠意とやらを届けなければならない僕は、今日もこうして出歩いてきたというのにです、どうやら関係は悪化するばかりだし、それにもましてこの分じゃ、明日は玄関に上がらせてもらうこともままならないかもしれません。いったいぜんたい、上とあの家は、何を考えているのか、善良すぎる僕には解ったものじゃありません。

 だからこそ、こうなってしまったのは、別に僕が悪いわけじゃないということは、何より確かなことなのですが、もう一つ決定的な証拠が必要とされるのならば、あの事についても話さなければならないでしょう。

実を言うと、いかにも晴天の霹靂と言わんばかりにごねついている、あの家には、もう一年半も前から立ち退き要請がでているのです。

それに、あの家の隣もその隣も、うちの社の提示した条件にはむしろ喜んで納得してくれ、半年も経たないうちに、あの家を除いて、殆どの家々は引越していきましたから、その点から考えても、あの家の住人は何時も僕の前では被害者面をしてはいますが、さりげなく圧力をかけて、交渉金の値段を張り上げているところをみても、彼らは立派な拝金主義者とみなせるだろうし、そんなような人間が、先祖云々と言ってくるのですから、どうやら今や魂でも金が買える世の中になってしまっているのかもしれません。

 まあ、そんなところをふまえれば、今現在この一件で誰よりも被害者に相応しいポジションに在るのは、この僕の他にいるはずはないということが誰にでも、分かっていただけると思いますし、それだけでも結構勇気なんかが出てしまうのは、サラリーマンの悪い癖で、その反作用か、どうも最近疲れがとれないままというわけです。

 プルルルルル

 帰りに駅に向ってあるいていると、右のズボンのポケットから甲高い叫び声が立ちました。

僕は始め、突然の電子音にびっくりしてしまいましたが、その正体は自分の携帯電話の音でしたので、すぐに落ち着きをとりもどそうとしましたが、そう心がけようとすれば、ますます疲れがたまっていくようで何やら不吉な予感さえ道端に寝そべりだしそうになってきましたが、そんな僕の心境を携帯電話が察してくれるはずもありませんでした。

プルルルルル

ふつう、今時こんなシンプルな着信音は逆に珍しいかもしれません、しかし携帯電話に構うことなんて、もうこの頃の僕はだいぶ面倒くさくなってしまっていたので、機能をいじる気はになれず、結局そのままにする他ありませんでした。それに僕は、むしろ今や携帯電話に嫌悪感すら感じていましたが、電話が鳴れば出てしまうのが現代病というものでした。

 「はい、もしもし。」

 「あっ、わたしー、今日ひま?」

 電話は同僚のA子からでした。A子まるでヤモリのような女だったので、どんな男とも食事と幾ばくばかりの小遣いを引き換えに、彼女のふりをしてくれる便利な娘でしたので、今日も誰かにたかろうとでもかんがえていたのでしょう、まず手始めに僕に電話でもといったところに違いありません。

けれども、A子の運もここまでで、いつもは優しくおごってやったりするこの僕でも、今日はなんだか腹の虫が悪く。

 「さあね。」

 「なによ、意地悪のつもり?」

 「さあね。」

 「わかった、さっき課長にどやされてたから、きげんわるいんでしょ?いいわ、今日は一緒に飲みましょうよ。」

 なにをやっても食い下がらないA子はまるで、既に僕が同意でもしたように思っているのでしょう、その後、待ち合わせの場所と時間を一方的に尖ったナイフのように突きつけると、そのまま電話をきってしまい、後にはツーツーという音だけ残ります。

 そして僕はといえば、いつもこんなことでも嬉しくなってしまう自分が今日は嫌で嫌でしかたなくなります。

くわえて、A子の悪意に満ちた好意も今の僕にはどうでもいいことなんだなと、整理がつけばそれで十分なような気がしましたから、今までのA子への多少のなりの好意さえ、実は相場、誘ってくるのは、今の電話のようにA子からでしたから、僕が好意と勘違いした、唯一つの心の救とは、電話料金が向こう持ちあることぐらいが所以であることは確実でした。

そうです、そうなんですよ、ほんとのところ、僕にとってA子は単に天気の話を一緒にするだけの存在で十分なんです。もし、今度彼女から電話がかかってきても、僕はただ一言こう言ってやればいいにちがいありません。

 「今日も、東京の天気は晴れでも曇りでもないな。」とね。

 

 もう、あの家から帰るころには夕方だったので、僕はそのまま自分の部屋に帰ることにしました。

 別に僕だって、好きで部屋に帰りたかったわけじゃなく、実を言えば、会社に戻って同僚達と課長の悪口の一つや二つ話しながら居酒屋にでも繰り出したいところでしたが、下手に会社に帰えってしまえば、それこそ課長に再び文句のフルコースを食らわせられてしまうのが関の山ですし、A子とつるむ気は毛頭なかったので、幾ら自分の部屋がエアコン無しで寒いからといって、帰らない訳にはいかなかったのです。

 そういうわけで、部屋に帰ると案の定、部屋の中は冷たい空気で覆われていて、せっかく近くのコンビニで暖めてもらったばかりの、豚の生姜焼きの脂身は、だいぶ遅い死後硬直でもしたように白く濁ってしまい、加えて昨日買ってきた週刊誌の記事さえも、久しぶりに見た夕方のニュースで、とんだガセネタだったことが証明されてしまったので、なんだか疲れがたまっていた僕は無力感に襲われて、その週刊誌を枕にして弁当を口にしないまま、深い眠りに就いていきました。

 

 プルルルルル

 突然の呼び鈴で目が覚めた時には、夕焼け空はどこかに消えて、僕は携帯電話の電源を切っておかなかった自分の不注意さを、ほとほと後悔していましたが、いつもの癖で、すばやく電話にでてみると、どうやら電話の向こうにいるのはA子のようなので、僕は寝ぼけた頭をフル回転させ、天気について考えます。

 「ねえ、約束の時間すぎてるけど、どういうつもりよ!」

 A子はどうやら、僕が約束をすっぽかしたとでも思っているらしいのですが、僕の方は約束した覚えなんて無いのですから、とんだ被害妄想だとも思いながらも、ここで怒ってしまっても、大人気ないと思った僕は、まるで彼女をあやすように。

 「今日は、オリオン座が綺麗かもしれないな、だって今は冬だから。」

 「はっ、何言ってるの?」

 「さあね。」

 「もう、怒るわよ。なんでもいいからさっさと出てきなさいよ、わたしは、さっき言った所で先に飲んでるから後から来てよね。」

 「またあした。」

 「なによ、来ないつもり!」

 僕はまだ酒も飲んでいないのに、熱くなっているA子にうんざりすると、適当にあいづちを数回してから彼女より先に電話を切ると、そのまま電話機の電源も切って箪笥の奥に放り込み、また眠ろうと勤めてもみましたが、今度は部屋の電話機の呼び鈴までがジリジリジリジリうるさくて仕方ないので、コンセントを引っ張って静かにさせてみました。

けれどもそうしてみても、根本的には変わりなど無く、次はアナログ時計の針を刻む音や、終には夜風で屋根が軋む音にさえ気をすりへらされ、眠る余裕さえかき消され、どうやら僕は、まるで部屋に遊ばれているのでした。

そして二分もしないうち、そんなうるさい静寂に僕は我慢できなくなったので、生姜焼き弁当を腹にすばやくながしこみ、特に着替えもしていませんでしたから、背広のまま部屋をとびだすと、近くの駅に丁度電車が来ている頃合で、一瞬ほっとし倒れるように乗り込めば、中は人であふれていて立っているのも辛いくらい、ましては眠ることなんてできるわけもなく、三駅ほど過ぎると僕も遂に気分まで悪くなって、何も考えないで次の駅で降りずにはいられませんでした。

 

その駅は偶然にも、あの家の最寄り駅だったので、僕はなんだかこうなってしまったのも、あの家の住人が仕組んだことのように思えてしまい、何かせずにはいられなくなりました。

 そして、そんなふうな事を考えてながら歩いている時に限って、電信柱のポスターが目にはいるものらしく、そこには『泥棒、空き巣注意』という文字が印刷されたポスターが頑固な汚れのように貼り付いているのを見た時、僕はちょっとした名案を思いつきました。

まず、あの家の住人は、今にも死にそうな老人とその娘の性悪なオバサンだけなので、例えばオバサンが泥棒で逮捕されとしてしまったのなら、あの老人に自立した生活が無理であるのは目に見えています。したがって、施設に入れられることは確実であると見積もれば、自動的にあの家からは彼らの妄想の中でしか存在しえない先祖とやらを除いてしまえば、住人が撤去され、事実上もぬけの殻になるという寸法です。

なるほど、そうすれば誰も犯罪者と恍惚老人の肩を持つ物なんているはずないのですから、うちの会社が勝手にあの家を取り壊したところで大した問題にはならないでしょうし、それに何よりも、僕にとってはこれで課長に叱られる種が一つ減るのですからそれで十分でした。

 そして、僕は計画の実行のため、近くのコンビニで使い捨てフィルムを一つ買うと、そのままあの家に直行しました。

 

ピーンポーン

 僕は千円札を玄関先の地面に置くと、インターフォンを鳴らして、すばやく玄関先が見渡せる植え込みに、まるで蛇のようにもぐりこむと、フラッシュを焚く準備に取り掛かかりながらあのオバサンが罠にかかるところを想像して、イメージトレーニングにはげみます。

間もなく玄関からは、昼間僕に暴言を吐いたオバサンが出てきました。

一瞬、扉の前に誰もいなかったことから来る不安に歪められた顔をした(本当は、何時も不機嫌なオバサンのこんな不安そうな顔はそうそう見られるものではなかったので、写真におさめてやりたかったが、計画のため我慢せざるおえません)オバサンはすぐに彼女にとっては平凡な、不機嫌そうな顔に戻り、体に電撃が走ったかのように目を剥いて、足元の千円札をみつければ、途端にまた怪訝そうな表情に変わり、その千円札を拾った瞬間。

パシャ

僕はシャッターをきり、その場面を切り取ると、一気に走り出して庭から脱出し、オバサンは大げさに家に誰かが忍び込んでいたとでも思ったのでしょう、「泥棒、泥棒!」と叫んでいたので、僕はほとほとオバサンに呆れてしまい、大声で笑わずにはいられなくなり、そのままの顔で、僕は近くの写真屋に駆け込みました。

 写真は一枚きりだったので、少し勿体無くも思いましたが、十分もしないうちに僕は証拠写真を受け取ることができたので、それだけで得した気分にさえなりました。

計画の実行の為には、まず初めに交番に向う必要があります。どんな犯罪であっても、その始まりは交番からなのが妥当でしょう。そして僕が交番に出るために、その前の角を回ろうとした時でした。

 なんと、既にあの家のオバサンが、交番の中でオバサンそっくりに年をとった中年の巡査と親しげに話をしているのです。

 そして、その時、僕はやっと気が付きました。僕はオバサンを泥棒に仕立ててやるつもりが、実際は僕がオバサンに泥棒に仕立て上げられようとしていたことに。

 そうですよ、よく考えてみてください、僕がこんな写真を今見せに言ったところで、オバサンはきっと、この千円札ははじめから自分のものであって、たまたまポケットから落ちたのを拾っただけだと言うに決まっています。そうなれば、僕があの千円札の番号を控えることを忘れていた以上、僕のものであると証明することは難しいのですし、なにより証明できたとしてもオバサンに今、交番に居る以上「落し物の千円札を届けに来たんです。」と言われてしまえば、僕はオバサンに千円の一割の百円をあげなければならないどころか、もしこの写真を中年巡査に見られてしまったなら、僕は『さっきあの家からとび出していった泥棒らしき男』として警察の尋問を受けざるをおえないのは必至ですし、しかも確かに住居不法侵入の罪はおかしてしまっているのですから、どちらにしても今ここで、出て行ったりなどしたら、それこそ僕は、あのオバサンの思う壺にはめられるということになってしまうでしょう。

 

そんな簡単なことに今になって気付いてしまうと、僕は怖くなりましたが、それと同時に今なら逃げ切れると思い、踵を返し走り出します。

こうなってしまえば、僕は不法侵入を完全犯罪にしてやらなければ腹の虫が収まらないですし、今日のところは、あのオバサンに少しでも怖い思いをさせてやったことだけでなんとなく満ち足りた気持ちになっていましたから、そのまま家にでも帰ってビールでも飲んでみるのも悪くありません。

けれども、どうやら、駅への道は交番によって塞がれていたから、念のため、というより生理的にでしょうか、僕はどうしても交番の前だけは通れなかったので、違う路線で回り道になってしまう事を差し引きしても、結局そのまま逆方向にある駅まで歩いていくことにしました。

 

 電車に乗って三駅目、僕が乗り換えのため、ある大きな駅で降りますと、その駅に慣れていないせいか、それとも、いつでもその駅は工事中であるのせいなのか、すっかり道に迷ってしまうのでした。

どうせ迷ってしまったなら一度あきらめて、駅の外にでも出ようともしましたが、どんなに歩いてみても外へ出る通路はおろか、僕が行き当たるところには決まって下りの階段ばかりが顔を出し、とうとうかんねんした僕は、それらの階段の一つを、降って行きますと、なんだか懐かしい気分になってきさえする程に、古ぼけた赤レンガで支えられた、地下通路が現れて、そこから二十歩も進んで行くと、急に天井も高くなり、そこは駅のホームになりました。

 『地下鉄中流線、下りの最終電車が参ります。危ないですので、白線の内側でお待ち下さい。』

そんな駅のアナウンスが流れると、すぐに赤いラインの入った見たことも無い(いや、昔どこかで見たことがあるかもしれない)ような電車がトンネルのホームに横づけされました。

その時の僕は、僕が交番の前で悩んでいた頃は、まだ八時か九時くらいだったのに、駅の中で迷っている間に、もう終電が出てしまうくらいに夜中になってしまったんだなと、少し損した気分になっていましたから、見たことも聞いたこともない電車でしたが、むきになってそれに乗り込むと、幸いなことに電車の中には見える限りには二、三人ほどしか客は居なく、とても空いていたので、疲れもあって電車の長椅子に寝そべると、間もなく電車のドアは閉まり、   

プオーン

 地下鉄は警笛音とともにトンネルの中をはしりはじめていました。

 

 「お客さん終点ですよ、乗車券を拝見させていただきます。」

 どうやら、僕は電車の中で寝過ごしてしまったようで、駅員に言われるままに切符を出しても、その切符で間に合うはずもなく、乗り越し量を取られた後は、ちょうど財布の中身は空っぽでした。

 いつの間にか、電車は地上に出て、景色もどうやらだいぶ遠くに来てしまったのか、山が見えるほどで、目立つ建物もないところを見ると、そこはかなりの田舎のようです。

しかも僕が電車から降りた時には他のお客は全員もう降りてしまったのか、残っているのは僕だけのようで、誰にもここがどこであるかなど尋ねることなんてできませんでしたし、不思議なことに、乗り込む客は誰一人いそうもりませんでした。

なので僕は駅に降りてから駅員に事情でも話して助けてもらおうかと思っていましたが、あいにくここの駅は無人駅らしく、再びもどって電車内の駅員に話をきいてもらおうかとも思い、電車に戻ろうとした時には、既に電車は出てしまっていました。

 

木造平屋の無人駅には一つ大きな伝言板があり、そこには若者の観光客などが貼っていったと思われる、思い出の写真たちがたむろしていたので、僕も昨晩撮って胸ポケットに入れておいたあの家のオバサンに証拠写真を目立つように貼ってから、行くあてもないのですが、じっとしていても、何かの事件の犯人として疑われてしまいそうな気がしたので、そこを出ることにしました。

僕が駅をそんな具合に後にして、とりあえず会社に今日は休むと連絡を取ろうとも考えてみましたが、携帯電話は部屋に置いてきぼりにしてしまっていましたし、公衆電話で使えそうな小銭も、もうありませんでしたので、交番か村役場にでも助けを求めに行こうかと思ってはみても、実際交番はすぐに見つかったものの、そこに居た若い巡査の顔はいかにも脳が無さそうで、少しほっともしましたが、やはり今は生理的に、そこにはどうしても入る気になれず、それならばと、はりきって役場を探してみてみても、なかなか見つからないもので、役所というものは本当に肝心なときに役に立たないものだなあと思う一方、そんなものに頼らなければならない自分の今の無様さが、まるで吐き気のように襲ってくるのでした。

それどころか、この村の道という道は、最近全国的に晴れの日が続いているというのに、どこもかしこも泥でぬかるんでいて、しかもなんともいいがたい異臭さえ漂わせています、しかしそんなことは、田舎であればどこにでもありそうなことと思いましたが、何より奇妙な事実は、村中に僕のように背広を着たまま途方に暮れている人達が、何故だか沢山徘徊していることでした。

どうやら、罠にはまってしまったのは僕だけではないようです。

そんなことを観察しながら歩いていると、何時の間にか村を一周してしまい、依然、役場は見つからないにもかかわらず、僕はすっかり疲れてしまい、適当にそこらにある石に腰掛けると、目の前のリンゴ農家の老人たちの声が耳にはいってきました。

「最近、うちのリンゴがよく盗まれてなー。」

「うちもだで、ほんとこまるべなー。」

僕はその言葉を聴いて、きっとリンゴ泥棒をしているのは僕の仲間だと、すぐに察しはつきました。

何故ならと理屈を考える手間もなく、彼らは皆、僕のように電車に乗って帰ることができないのですから、財布の中身だって僕と似たり寄ったりでしょうし、そうなれば食に困るのも当然です。でもそれくらいのこと簡単に考え付きそうなものなのに……しかもこの村の住人達は、どうやら僕らみたいな人間が沢山歩き回っていることにさえ、あまり危機感を持ってはいないようでした。

でもこれはもしかしたら、僕にとっては好都合なことなのかもしれないのです。だって僕らのような人間の存在を危険視していないということは、彼らが僕らに警戒心をもっていないということなのですから、もしかしたら。

「あの、そこのおじいさんたち、本当にこの辺はリンゴ泥棒が出るのでしょうか?」

「おう、そうじゃよ。最近は物騒になったもんだで。」

 「そんれに、被害はりんごだけではねーんべ、ほかの作物も全部だぁ。」

 「それじゃ、僕にどうか見回りをさせてはいただけないでしょうか?いいえ、お金が目的とかではないんです。だって悔しいじゃありませんか、今まで大切に育ててきた作物をですよ、盗まれてしまうだなんて。やっぱり、許しておいてはだめですよ。ねえ、だからこそ僕をここで雇っていただけないでしょうか?給料は安くて構いませんから、帰りの電車賃だけでいいんです、別に東京まででなくても、近くの都市まででけっこうですからね、悪い話ではないでしょう?」

 「だどもなあ。」

 「そうだぁ、こーいうこっちゃ警察の仕事だでな。」

 「うんだ、そんれにもしあんたが、泥棒に怪我でもせられたば、おらたちじゃ責任さ、もてんし、もーしわけたたんもんな。」

 「まあまあ、そう言わずにですね、人助けと思って……おねがいしますよ。」

 「そーいわれてんもなぁ。」

 「やっぱし、いろいろめんどーだしな、それに……あんたよそもんだべ。」

 「でも、よそ者といってもですね、僕はちゃんと東京に帰れば仕事も持っていますし、身元だってちゃんと……。」

どうやら危険視していないとうことは直接に好意的の同議ではないらしく、結局どんなに説得しても、老人達には僕の言葉など浮浪者の虚勢か弁解にしかきこえていそうにありませんでした。

それでも僕は諦めきれずに村中を回って、村人らしき人間には一通り同じように声をかけてみてはするものの、どうやら田舎の人間というものは、今世紀になった今でも依然、保守的であるのには変わりが無いようで、だれも僕を雇ってくれそうにありませんでしたし、しまいには先ほど交番で見かけた、殆ど無知そうな若い巡査までが自転車でぬかるんだ道の泥を跳ね上げながらパトロールに来てしまったので、すっかりやる気というものがなくなってしまいました。

 

「なにやかや言っても日が沈むもんだな」と呟きながら山裾に消えてゆく太陽の断末魔を眺めていると、何故だか僕はA子の混ぜ物の多い口紅を塗ったくったわざとらしい唇を思い出していました。

そして、そんな妄想にふけってしまう原因は何かと考えたのならば、どうやら僕は尿意を覚えているのです。

しかし、どこを探しても公衆トイレなどというものはなく、それに加え、ここの住人が僕にトイレを貸してくれるはずもなく、しかたなく草むらで用を足そうとすると、急に人が(もちろん、僕と同じで背広を着ている)飛び出してきたので、僕はズボンのチャックを下ろすこともできず、まるでトイレのしつけも成っていない犬のようだなと、自分で自分を笑いました。

「おい、おまえまさかここで用を足そうとでも思ってるんじゃないだろうな。」

目の前の浮浪者が、何に腹を立てているのか、かなり怒りに満ちた形相で僕に話しかけてきます。

「ええ、まあ、そのつもりで。」

「おいおい、やめてくれよ、するなら道ってきまりがあるだろうが。」

「そっそうなんですか……。」

「知らなかったのか、さては新入りだなお前、まあいいさ、今からでも気をつけてくれりゃあな。もう一度言っておくがここでは道以外の草むらや、木の下は全部、俺等みたいな人間のねぐらになってるわけさ、だから道以外で用をたされると困るってわけ。」

「それは本当ですか?」

「本当も何も、雨もないのに何時もぬかるんでるのと、この臭いで分かるだろ。」

「そうですか……。」

「そうさ、分かったら、さっさと道に行きな。」

「いえ、もういいんです。」

「なんだ、はずかしいのか?はずかしがることはねーよ。俺らはみんなそうしてる。」

「そういう問題ですか。」

「そういう問題さ。」

「あの、もう一つ聞きたいんですが、いいですか?」

「ああ。」

「何で皆さん、ここにいつずけてるのでしょか?」

「お前と一緒の理由さ、みんな財布の中が空っぽなんだ。」

「でも、それなら、働けば……。」

「働ける場所なんて、ここには無いさ、仕事はみんな村人の連中が独占しちまってるからな。」

結局、彼との会話で得られたことはせいぜいトイレについてのことだけで、その他のことまで訊いてしまった僕は、自分のおろかしさと、彼への罪悪感で、心は零れ落ちそうでした。  

でも、ここで諦めてしまったら、それこそ周囲の彼のような背広の浮浪者のように僕までなってしまっては、本当に東京には永遠にもどれなくなりそうだなと思った僕は、つくづく昨晩A子と酒でも飲んでいさえすればこんなことにはならなかっただろうにと悔やみながら、同同時にどうしようもなく焦燥感に追われましたが、A子の事を考えていると、なんだか急にA子が美人にでもなってはしないかと心配になり、それから同じように昨日A子を怒らせてしまったことを悔やみ始めれば、こうなったらと、僕は嫌でも働く決心がつき、こいだめと化した茶色い道を歩き始めると、途中でなんだか靴を捨ててやりたくなりましたが、それができない自分にはまだ、少しの希望が残っているものと信じ、それをめいいっぱいの勇気に変えて、大きなリンゴ畑の一角あった、これまた大きなダンボールの中に隠れると、スイッチが切れたように、すぐに村の夜がきて、ダンボールの外はまるで凍りついたように、静まり返ってゆきした。

考えてみれば、どうせ働き口がないのなら、こうして一方的に畑を監視してやればいいだけのことなのです。もしも運良く泥棒が現れたならこっちのもの、そいつさえ捕まえて交番にでもとどければ、僕の村での評判は上がり、仕事はもちろんのこと、もしかしたら犯人逮捕に貢献したことで金一封がもらえるかもしれませんし、はたまた、警察署に僕の能力が認められて、あの無能そうな若い巡査の代わりに、この僕が村のお巡りさんとしてやっていくことだってできるかもしれないのです。

そうなれば僕は晴れて公務員というわけで、これなら今までの会社だってやめてしまっても構わないし、A子をここによんで暮らすのだって悪くはないわけです。そうだな、子供は二人ぐらいがいいでしょうか?

しかし、そんなことを考えていると、空腹感になぜか僕は押しつぶされそうになりました。やはりまる一日何も食べないということの辛さは、身をもって体験すると酷い以外の何物でもなく、遂に、目の前のリンゴまでが僕に食べて下さいと、まるでA子のように迫ってくるので、僕もついつい、その気になって、こうやって見張り番をしているのだから、ちょっとした報酬としてすこしぐらいは許されるだろうと、リンゴを捥いで口にしたその瞬間、

「おいそこのお前、そうだ、ダンボールから今、出てきたホームレスが、何してる!」

僕は、近くで張り込んでいた、あの愚かそうな、若い巡査につかまってしまいました。

 

 今僕は交番の中の牢屋の内側にいます。あの巡査の机に立てかけてあるラジヲからは、異国の戦争についてのニュースの音声ばかり撒き散らされて、まるでここは音の海の中と化してしまったので、今や僕にはラジオの中と外、どちらがどちらか見当もつきません。

 「おい、お前は何でリンゴなんて盗んだんだ?」

 若い巡査は報告書を作るためか、さっきからしきりに僕に話しかけてきます。

 「ちゃんと聞いてるのか、泥棒した動機はなんだ?」

 「分かりませんよ。」

 「分からないって、動機もないのに盗んで食ったのか?」

 「なに言ってるんですか、僕は盗んでなんて……そうだ、僕は昨日、東京で現金横領の現場をバッチリ撮った写真を持ってたんですよ、今もここ駅に貼ってあるはずです。」

 「それは本当か?」

 「本当ですとも。」

「そうかそうか、じゃあ後で見ておくから、今はお前の取調べのほうが先だ。」

 「でも、向こうは、千円もネコババしたんですよ、僕はだいいちリンゴ一個だけですし、どっちの事件のほうが大きいかは、あなたにだって分かるでしょ。」

 「分かるよ、千円のほうが大きいさ。」

 「じゃあ、それなら。」

 「でもな、現場は東京だろ、じゃあこっちの方が俺にとっては重要だろうな。」

 「えっ?」

「だって、俺の管轄はこの集落だけなのさ。」

若い巡査はそう言って、一度、嫌味なくらいのため息を付くと、また尋問を始めようとしましたが、そんな巡査との会話の中に僕が求めているものが有るわけも無く、僕はすっかり眠くなってしまいそうでしたが(最近ずっと緊張状態にあったので、それはむしろ心地よくもあり、僕はこうして捕まってしまったこともそう悪い気はしませんでした。きっと、人間というものは例え犯罪者にされても、何所かに帰属することの方がまだ気楽なのかもしれません)、しかし、そんな退屈はそう長くは続きませんでした。

「どちらさまですか?」

交番の中の空気が一瞬震えたと思うと、眠気が外に出て行った代わりに、泥で汚れた汚い黒いロングコートを纏った男が侵入してきました。

「久しぶりだな。」

男の声は低く(その声はもともと低いというものではなく、その男の心境が彼の声帯を広く伸ばしているために現れたような声でした。)、僕の前では威張りっぱなしの青い制服の巡査が、黒い男に威圧されているのを見ることはどうにも僕には面白く思えてしまいます。

 「なあ、おまわりさんよ、俺の顔に見覚えは?」

 「さあ、どちら様でしょうか?」

 巡査がそう答えると、押し殺された男の声は急に、独立宣言をした発展途上国の青年政治家のように甲高いものとなり、

「ははは、そうですよね、もう一年半も前のことだからな。」

「はあ。」

巡査の目は、金魚のように泳いでいて僕はその瞳を金魚蜂の外から追いかけている、三毛猫の心境に合致しました。

 「実は俺、前にあんたに捕まって、リンゴ泥棒にでっち上げられた者なんですがね、それにしても警察官っていうものは……だって、俺はただリンゴ畑を自発的に泥棒が来ないか監視して、それで少し腹が減ったから、おすそ分けしてもらっただけなんだけどな……まあ、そんなことはどうでもいいんですがね、俺が言いたいのは、あんたらはホントに自分の成績のためならなんだってするんだなあとね、思ったわけだ。で、ここからはあんたの態度しだいなんだがな、無実の罪で俺を逮捕した事に少しでも償いたいっていう気持ちがあるなら、東京までの電車賃ぐらい工面してくれねえかな?」

 巡査の顔は、最初みるみる青くなりましたが、男の話が中盤に差し掛かるころになると、今度は赤く変色を始め、最後は紫色になり、男の話が終わると、とたんに彼は机の上の電話機に手を伸ばそうとしましたが、それよりも早く男の拳が紫色の顔を抉っていきます。

 僕はそんな光景を、まるで映画のワンシーンのように観ていました。だってこんなこと現実に起きていたって国がもみ潰して、テレビのニュースには取り上げられないのが普通なのですから。傍観者にならざるをおえません。

 「貴様……公務執行妨害、」

 巡査の台詞は続いていくことなく、代わりに男の拳が巡査を殴り続けているので、巡査の紫色の顔はまた青色に戻りつつあり、しかも巡査はこの僕にさえ、「助けてくれ!」と言わんばかりの金魚色した目で見つめてくるのですから、僕もとうとう映画の俳優として、この場に躍り出さないわけにはいかなくなり。

 「おい、そこのお巡りさん、そんな目しないでくださいよ、だいいち考えても見てくださいな、何のため僕らは少ない給料から税金を支払ってるか分かります?」

 巡査は何も言わないで、ただ殴られ続けることだけでこの場を乗り切ろうと考えているのでしょう、終に口をつぐんでしまいました。僕はそんな彼の悪知恵に愛想を尽かしてしまったので、彼が答える前に答えを教えてやることにしました。

 「あんた達みたいな、汚れ役を雇うためですよ。」

 それからすぐに、僕の奴隷の心境が男にいい意味で伝わったのか、男はしなびてしまった巡査のバンドから牢屋の鍵を奪い取ると僕を解放してくれたので、今度は二人で巡査を攻撃していると、巡査の顔は終に真っ青になって、彼の青い制服と同化してしまったので、僕たちはどこからどこまでが巡査の体か検討も付かなくなってしまったので、男はそのまま巡査ごと彼の制服に着替えると、新しいこの交番の主が出来上がりました。

 

「おい、お前はこれからどうするんだい?」

 男は僕に訊きました。

 「さあね、行くあてなんて……。」

 僕は男に出されたお茶をすすりながら答えました。

 「もし、東京に帰るなら(男は自分の青い制服の胸ポケットをたたきながら)、こいつの財布から必要な分もっていけばいいさ。」

 その答えを聞いて僕には彼がとても良心的な人間だと確信できたので、少しばかりわがままをを言う気になれました。

 「じゃあ、僕をここで、あなたが改めて逮捕してください。実は僕、昨日にですね、あなたと同じ罪状で捕まってしまって……。」

 「だが、あんなインチキ野郎が作った罪なんて、お前が受ける必要なんて、せっかく自由に、」

 「ええ、私もそう思っていますよ、しかしですね東京に戻ったからといって、なんになるんです?休みを取るために休まず働かなければならない都会になんて帰りたくないんですよ僕は。だから逮捕してもらいたいんです、そうすれば刑務所に入れるでしょう。考える時間が欲しいんですよ。」

 「しかしな、それだけなら、べつだん刑務所じゃなくても。」

 「いいえ、刑務所なら、外と違って食いはぐれる事なしに考えつづけられますから。それに、もう僕、自由なんてものこりごりなんですよ、昨日一日だけであんなに辛かったのですから、それが毎日続くなんて考えたくもありませんし……あなただって、新しく巡査に成られたわけですから、ここで一つぐらい手柄を上げたほうが、甘く見られずに立場も保てますよ。」

 「そっ、そうだな、じゃあすまんが……。」

 「いえいえ、これは僕のわがままなのですから、気にかけないでくださいよ。」

 「そうか、そうだよな。ははは、これは人助けだよな。ははは。」

 そして僕は逮捕され、禁錮一年半を求刑されました。

 

 全ては計画通りに進んでいます。本当にあの男が、あの若い巡査と同じ程に愚かで、とてもたすかりましたよ。だって、この分ならば、あと一年半辛抱すれば、僕はあの男と同じ方法で、晴れて警察官に成れるのですから。これでA子を東京から呼んで一緒に村で暮らす夢の実現に一歩前進したといえるでしょう。

 さあ、後は、あの男を出所後のお礼周りで殴り潰すだけの腕力さえあれば、計画は問題無く成功すると言えるでしょう。そのためにも今の貧弱な体を鍛える必要はありますが、幸いに時間ならたっぷり有ります。今日だってもう三時間もシャドウボクシングに費やしましたし、この分なら余りある程に筋肉は付いてくれそうです。

 試しにやってみましょう。

男は僕にただがむしゃらに向って来る。

ほら、ジャブ、ジャブ、ジャブ。

 そこで、少し後退しておいて、男が油断したら右ストレート!

 まだまだ、男は倒れないぞ、なんたって現役の警官だからな。

 けれど、こうややって、すばやく右、右、左。

 左、左、右に動いて相手のパンチを避けて、後、後、前。

 そうすれば、相手はだんだん疲れてくるんだ、ほら、前、前、後。

 でも、ここで急いで攻撃に転じちゃいけない。

 疲れれば疲れるほど、相手がやけになったとき怖いもんなんだ。

 「はあ、はあ、はあ。」ほら聞こえるだろ、相手の呼吸音。

 これで、判断するんだ。よし、試しにジャブ、ジャブ。

 こういうことは、世間の人は体が資本だと思ってるけど。

 実は……おっと危ない危ない、戦いの最中だもんな、余計な事考えるのは良くない。

 「はあ、はあ、はあ。」聞こえる聞こえる。右、右、左。

 さっきのストレートは効いてるな、頭フラフラさせてるよ。

 そろそろ、ここで一気にいきたいところだけど、でもジャブ、ジャブ、ジャブ。

 そうそう、こうやって、じらしてやらなきゃ。 

やっぱり、こういう事も頭脳が大切なんだよ。左、左、右。

 さあ、ここからさ、一気に間合いを詰めるんだ。

 そして、ストレート、少し外れても大丈夫、男がひるんでる内に。

 はあ、はあ、体がこんなによく動いてくれるなんて、東京に居たころは無かったもんな。

 やっぱり空気が違うと、違うのかな。なんたっておいしいもんな。

 よーし、おいしい空気を吸って、しゃがみ込んで。

 ひざのバネを生かして、そのまま男の顎に右アッパー!

 フィニーッシュ…………。

 

 精一杯運動して、気が付く頃には何時も夕日が小さな窓から顔を出して笑っているので、部屋中面白いほどに真っ赤に染まっていきます。

 窓の外には一面の赤。

 赤、赤、赤、赤、赤。

 この部屋は殺風景なので本当に隅々まで赤くなってしまいます。

赤、赤、赤、赤、赤。

赤……動脈の血液。

赤……交番のランプ。

赤……A子の唇。

 赤……ボクサーの赤パンツ。

 赤……赤い旗。

次に会う時に男はきっと青い服を着ているに違いありません。それなら僕はこの赤い色で戦い、勝利をおさめ、あの青い制服を手に入れてやるのです。



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