あの景色

 


坂の下にはパッチワークの文様のように、所々抜けているものの一面の麦畑が広がっていた。

麦畑を炎天下の下ただ、ぼうっとしながら自転車を進めて行くと目的地に着く筈である。それなのに此処の景色ときたら、黄金の麦畑以外は民家が点在する程度で、目標になる物など殆ど無いのだから、道に迷って下さいと言っているようなものである。街に居た頃は、まるで時間も空間も、秒単位、メートル単位で区切られていたけれど、此処に居ると、時間は御日様の傾いていくスピードだし、空間なんてものの明確な境目なんて、当の昔に天火に干されて何処かに飛んでいってしまったかのようにさえ思えてくる。そもそも空間を区切るなんて、よそよそしい行為を行っているのは、人間とサバンナの猛獣ぐらいしか僕には思いつかないし、そんな陰険な瞳の両者が持つ最も象徴的な特性といえば、弱肉強食と資本主義経済という、ドロドロしているにもかかわらず、張り詰めるように冷たい冬のドブ川を連想させる単語達であった。

そして、そういう景色を心の映画館に、一瞬であっても上映してしまったという事実は、僕にビル群に対する無意識のコンプレックスがあるという事を、自分自身に認めさせるには、痛いほど十分な事だった。

                     *

小さい頃から僕は街で育った。街は何時でも便利で、僕の願いを叶えてくれたり、困ったときには助けてくれた。でもどうだ、この田舎は、僕が幾ら希望に胸躍らせても、苦痛を千切れそうな声で訴えても、ただ見ているだけ、何も変えようとはせずに同じ事を延々と繰り返し、昨日と、今日と、明日の区別だなんて全然つけようとせず、ただ、こんこんと流れるだけの時間が過ぎていく。

しかし、僕は最初こそはそう思ったものの、日に日に輝きを増す麦畑を見ているうちに、こういう景色も悪くないと思えるようになったし、むしろこのような景色の方が、都会の雑踏より居心地が良く思えるようになってきた。そして、初めて、かつて住んでいた、あの街について客観的な視線から見ることができるようになったのだと思う。

何やかやといったところで、前居た街は僕にとっては素晴らしい所だった。今居る此処と比べても、お世辞にだって向こうの方が此処より住み難いとはいえないし、あの街を出てすぐの頃は、あの街より良い所は、国中、いや、世界中探したって、そう数多くは見付かる筈は無いと確信していた程だった。

そして夢にだって、こんな何にも無い田舎なんかが、居心地が良くなってしまうだなんて、思わなかったし、同時に人間の心なんてものは、つくづく勝手なものだなと、呆れ半分にだが、感心してしまった。

そして、そういう訳で、今僕は此処の麦畑のある風景に早く慣れようと、わざわざ少し回り道をして、県道を通らずに、この麦畑を横切る農道を自転車で走っているのである。

                     *

ジィーだか、ギィーだか、上手く擬音語に出来ない音をたてながらギアの付いてない僕の自転車は麦畑に囲まれた農道を軽快なスピードで進んでいく。

何処かで小鳥達が彼らの歌を歌っているのだが、何処にも姿が見えないので、麦畑の中に隠れているのかもしれないと思ったのだけれど、じゃあ何故、隠れる必要がある?鳥が鳥である所以はペンギンとダチョウと一部の鶏を除いては、空を飛ぶから鳥という事になっているのだ、空を飛ばないものは、よっぽどの理由が無い限り鳥であるとは認められていない筈である。まったくその通りだ、鳥は鳥である以前に空飛ぶ生物で無ければならないのに、麦畑に隠れて空を飛ばないなんて、どうした事だろうか。理由といったら日よけだろうか?小鳥が日射病や熱中症になるなんて聞いたこと無いが、きっと麦畑の作る影で涼んでいるのだろう。

                     *

あれから数分がまさしく風と供に過ぎ、だいぶ長い距離を移動した筈なのだが、

ピョピヨピヨ

まだ姿の無い声がする。

ピヨピヨピヨ

どこまで行ってもその歌声は僕の耳に入るか、入らないか、という奇妙なまでに安定した音量を保ちながら僕を追っているように聞こえる。そして、そんな小鳥達の悪戯めいた非常に象徴的な行為と、正常な頭の回転を著しく妨げる、これでもかという太陽光線とが僕を恐ろしい想像に駆り立ててしまう。

ピヨピヨピヨ

うるさい、うるさい、小鳥たちだねぇ。

ピヨピヨピヨ

之は、本当に歌声なのか?

ピヨピヨピヨ

いいや、こんなの歌であるもんか。

ピヨピヨピヨ

じゃあ、一体何を話しているのやら。

ピヨピヨピヨ

之は、影でこそこそやる噂話だ、陰口だ。

ピョピヨピヨ

じゃあ、一体全体誰の陰口さ?

ピヨピヨピヨ

さあ誰のだろう?しらないねぇ。

ピヨピヨピヨ

惚けたって無駄さ、これは御前への陰口さ。

ピヨピヨピヨ

……。

ピヨピヨピヨ、ピヨピヨピヨ

                     *

もう、その後は必死になって、自転車をこいできたので、あの忌々しい声と妄想は遥か後方に霞んでいる。不意に風が吹いて行ったので、そんな霞ももう帰る頃には、山の向こう側に飛んでいってるはずだ。

そうして、そう思うようにすると、少し安心できたのか自分が汗だくになっている事に僕は気いた。

「汗だくだぁー、気持ち悪りぃー。」

わざと、少し大きな声で独り言を言ってみたが、周りにその行為によって反応するものは、何も無かった。そういえばこの点では都会も此処も似ているようだが、此処では都会と違い、僕の声をただ聞いてくれる麦畑があった。今さっきの不吉な妄想が消え去った今、此処は僕を無条件に包んでくれる。

道端の一角が途切れて原っぱになっている。何時も通りかかるときは子供達が遊んでいるのだが、今日は少々暑すぎるためか、彼等の姿はそこには無かった。

その原っぱの中心のあたりに大きな樹が一本、天高く昇り、僕の皮膚をじりじりと焼いている御日様に手を伸ばすようにして植わっていた。汗だくの僕は、ちょうどその時良い風も吹いてきたので、その木陰でひとまず休憩をとることにした。

此処の景色はそりゃ此処に来た最初のうちは物足り無く感じた事もあったけれど、今では結構楽しく眺めることができるようになった。

そういえば都会に居た頃はよく、用も無いのに街まで行って、景色の一部に成りに行ったものだった。恐ろしい事に都会というものは人々が都会を求める以前に、都会自身が景色として完成するために、人々を求めているのだという事を最近になって初めて僕は気がついた。

それはそうだ、人っ子一人居ない都会なんて都会でも何でもない、単なる巨大な箱達と、ぐにゃぐにゃと曲がる迷路の羅列に過ぎないのだ。でも、そんな当たり前の事が今までの僕にはわからなかったし、現に今でも、その事に気付いていない人々は山ほど居るだろう。

しかし、それとは反対に此処の景色は、移ろう季節に流されてゆく自然だけで完成し、都会とは反対で、僕等を自分自身の景色を完成させる為の役者として、無理やり誘い出すという事なんか全くしなかった。

だから、僕は此処に居る時は無理に役者の仮面で顔を覆わずにいられた。それは仮面の下でドロドロとした冷たい汗をかかずにすむという、此処で僕が無防備な程に心をゆったりと、放し飼いにできる一番大きな理由であった。

                     *

だいぶ汗も引いたので僕は再び走り出す事にした。太陽は相変わらず元気そうだったが、少しばかり反省してくれたのか、心なしか僕を、さっきよりもやさしく照らしてくれているように感じる。

自転車のペダルが、休憩前よりもだいぶ軽くなったような気がした。それは、僕がこの景色の空気に慣れてきているという証拠かもしれないし、空気自体が本当に軽く、プレッシャーの全く無いものだからかもしれなかった。

もうすぐ、麦を収穫する季節だ。この風にたなびく黄金の海がしばらくの間、見られなくなると思うと少し残念な気もするが、きっと麦畑が刈り取られてしまっても、この景色はこの景色であり続ける筈だ、景色は生き物なのだから、そういう事は仕方の無いことだし、当たり前の事である。一番大切なのはこの景色がこの景色であり続けるという事なのである。

                     *       

麦畑が急に途切れるのと、目的地が前方に確認できるようになったのは、ほぼ同時の事だった。此処からは、県道の自転車では走りにくい、狭い歩道を走ることになる。

白いガードレールの奴が僕を呼んでいる。

『さあおいで。』

仕方が無いのだ。僕たちはもうこういう奴等に頼らなければ一日だって暮らしてはいけないのだから。

やっと目的地に着いた、やはり夏場の冷房というものは、なかなか良いものだと僕の無意識が呟くと、僕は急に恥ずかしくなった。僕等は何時も偉そうにしているけど、中身は甘い汁に誘われてどこからとも無く集まってくる虫達と同レベルなのではないだろうか?そして、僕の脳裏にはまた新しい疑問が浮かんだ。

あの景色に出会えた僕が幸せなのか?

あの景色を知らずに生きている人々が不幸なのか?

 あの景色を知ってしまったせいで、そうでない景色に落胆している僕が不幸なのか?

あの景色を知らないおかげで、自分達の景色に疑いを持たずに居られる人々が幸せなのか?

それとも、どちらにせよ僕等は、景色へ逃亡した時点で、景色から逃亡しなければならないのだろうか?

どちらにせよ、奴等がまた僕等を呼んでいる。そして僕等は、明日も景色に成りに行く。

 
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