赤と灰色の世界

 

新宿駅西口で降りると、動く歩道が敷いてある地下道が存在する。

そこを通って僕等二人は進んでいくと、間もなく東京都庁が見えてきたから、得意げになって僕は彼に言ってやる。

「動く歩道ができる前は、この地下通路もホームレスで一杯だったのさ。」

それを聞いて彼は微かに身震いしたが、それから少し経ってから、僕が飴玉を差し出すと、卑屈な表情で口に放り込み、小さな声で「ありがとう」と言ってくる。

本当に性悪な奴さ。だから僕には彼に自分の前を歩かれる事だって許せるわけも無く、彼の足を叩いてやれば、彼は「ごめん」と一言だけ言って、間も無く僕の前を歩くなんてことしなくなった。

僕はせいせいしていた。これだから、こういう人種は困るのだ。自分の置かれている状態に気付きもしないで、這い上がろうともしない。人間として最低ランクの奴らだよ。

それでも、歩道は自動的に僕等を新宿副都心まで運んでいき、そこからは歩いて都庁舎まで行くことにしたのだけれど、どうやらここらの通りには一つか、多くても二つくらいの人種の人間だけが徘徊しているようで、どこもかしこも、灰色の服を纏った住人達が、右往左往と小走りで、顔も見せずに過ぎ去っていく。結局、彼等にとって顔なんてものは不必要な代物なのだろう。

 

 「エレベーターは向こうの角を曲がったところのありますよ。」

 暇そうな役人がそう言っていたから、角を曲がれば、その通りに、そこはエレベーターホールになっていた。

そのホールには、この街には似合わない連中が、残された狭い土地を奪い合うようにならんでいたから、僕等もそこにならんでしまえば、やっぱり彼もその連中と同化して、同じようなことをしはじめる。本当に勘弁してもらいたいものだ。

 「君って人は、もう、うんざりさ。」

 僕がたまりかねて、そう呟いても彼の耳には何時も届かない、そういう生き物なのだから仕方ないのだ。

 エレベーターは間もなく僕等を押し込められて、高い空へと昇っていった。

展望台に付けば、彼はまったく子供のように、真っ先に窓に噛り付き、僕も後からしぶしぶ隣に近寄って、せっかくだからと下を見下ろすと、なんとおかしな事だろう、地面を歩いている人々の体は消えてなくなっているように見えるじゃないか。すると、僕等が今まで人間だろうと思って見ていた、街じゅうを闊歩しているあの物体は、消えてなくなってしまった、彼等の着ていた灰色の服自身、つまり人間の抜け殻なのか?

 「ほら、不思議でしょ。目の錯覚なんかじゃないよ。」

 彼は僕に、さっきの僕のような得意げな表情で、しゃべりだした。

 「さっき下をね、歩ってた時、あの人たちの顔が見えないなぁと思ってたら、やっぱり顔なんてなかったんだねぇ。いやいや、顔だけじゃない、体ももう無いんだ、在るのは、あの灰色の背広だけさ。」

 僕は、その現象に、恐怖なんてものを感じなかったわけじゃないが、そんなことより、彼のその話し振りに対する怒りの方が今の自分にとっては、ずっと大きかったから、ならばと自分の背広のポケットの中をまさぐってみても、なんということだろう。もう飴玉は一つも残っては、いないじゃないか。それどころかポケットの中にはそれの替わりになりそうなものさえ、もう何も入ってもいない。

 「みんな、蒸発しちゃったんだよ。」

 「知るか……そんなこと。奴等がヘマしたからさ。自分が空っぽに成るまで……。」

 「でも、そうしないとすぐに、赤字になっちゃううんだよね、このビルみたいに。」

 「それがどうしたっていうんだ!」

 僕が彼と面白くも無い会話をしながらも、諦めきれずにポケットを探っていると、一緒に上ってきた、オバサン達はもう液体状に溶け出して一つの大きな赤い塊になり始めていたから、このままでは僕等もあれに巻き込まれ、ドロドロに溶けてしまうかもしれないし、そうでなくても押しつぶされたら、窒息は必至そうだった。

 「早く逃げないと。」

 僕は彼のコートのフードをつかんでうながし、一気に走り出してエレベーターホールに舞い戻ったが、なかなかこういうときに遅いのがエレベーターというものだ。それにいざ扉が開いて乗ろうとすると、彼はどういうつもりか僕の手を突き放してきて。

 「先に行きなよ。僕はキーホルダーを集めてるから、売店で買っていきたいんだ。」

 「馬鹿言うな、そんなことじゃ逃げ切れないぞ!」

 「逃げるって何所にさ?逃げ道なんて僕等が生まれた時には既に無くなってるよ。赤い血はもう枯れてるんだ。だから彼等には、あんな灰色の服しか残って……」

 そんな彼の道徳じみた説教など、もう僕は聞きたくも無かった。僕はむきになって、動作のとろいエレベーターガールがボタンを押す前に、お言葉通りに『閉』のボタンを押してやると、彼の話が終わらないうちに、まんまと鋼鉄のドアは先に閉まっていったから、僕はちょっとした優越感と、降下による浮遊感を覚えていた。

 

僕とエレベーターガールの二人が地上に降りた時には、エレベーターホールで順番待ちをしていた観光客は、みんな既に溶け出してしまいどこまでも水平を平らに保ちながら流れれだそうとしていた。

そして、そんなおかしな現象せいで、事態ものみこめず、仕事も失ってオロオロしているエレベーターガールの彼女が、溶け出したゼリー状の人間達に飲み込まれてしまうのも時間の問題であるのは確実だったのだけれども、僕が彼女を助けてやる義理なんて最初からあるはずもない。

だいいち、あんな足手まといを連れて行ったら、僕自身だって危ないに決まっている、だから、ここは躊躇わないで走だしてはみるものの、僕の心のどこかでは、彼女を見捨てられずにいるのか、はたまた肉体自体が求めていたのか、困ったことに僕の体は、僕の考えとは裏腹に勝手に彼女の所に舞い戻っていく。

ああ、こうなってしまえば仕方がないと、まだ安全そうな中央ホールにまで彼女を子犬のように連れ出すと、彼女は「ありがとう。」と息も切れ切れに呟いてさえくるじゃないか、けれども、ここから逃げるにあたっては、僕にとってこんな女、とんだ荷物に他ならない。だから突き放すための理由を早くでっち上げなきゃならないのだ、ここは頭を働かせるためにも深呼吸してみる。

しかし、そうやって一息ついてみて、彼女のことを、よくよく観察してみれば、なかなか可愛らしいくもあるようにみえてくる。特にエレベーターガールの制服がしっかり板についていて、なんだか親しげさえおぼえてしまう。

だから僕はこれは儲けもんだと思い直して、彼女を使用人にでもしてやろうと思いついたところまではよかったものの、いつもの癖でポケットに手を突っ込んでしまった。これは痛いことだ。無くなったままの飴玉がよみがえっているはずは無いのだから、何だか惨めな気持ちにさえなってしまう。

「くそっ。」

しかし、そんな悪態をついていると、僕の頭脳はこんな自分への救済手段なのだろうか、頭の中に大小様々な飴玉の像が結ばれていくような、白昼夢を見せてくれる。

 その中では実に愉快に赤い赤い飴玉が僕の頭の中に溢れ出てくる。

 「大丈夫ですか!」

彼女は、そんな僕を見て心配にでもなったのか、「飴玉なんて無くたって、」と言ってくれる。どこまでも優しい女だ。でもそんな彼女の好意に答えを出す間なんて与えられずに、僕の体は、外の灰色人達のように蒸発するんだ。



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